語られない闇を語る

司法試験、大学受験、労働問題、社会問題などを中心に、あまり語られていない・語りつくされていない闇について語っていこうと思います。苦難と失敗から得た知見を曝け出していく予定です。

女子学生だけに家賃補助を出すことが許されるべきか

 普段は東大を素直に称賛するコメントが多い当ブログですが、そんなブログを書いている私からしても、「アホちゃうか」、「何堂々と差別してるねん」と思うような取り組みを東大が導入したので、その件について思うことを書き散らしたいと思います。


 

○普通に違憲性の問題があるだろう

 性別は、人が社会において一時的でなく占めている地位で、自分の力ではそれから脱却できないものであり(例外として性別変更の制度があるが、性同一性障害者のうち性別適合手術(保険適用外)をした者しか認められないので通常は自力で変更できない)、そういった自分ではどうしようもない要素によって差別されることは現代社会で許されてはなりません。そのために憲法14条1項で性別による差別をはっきり禁止しているのです。

 そういうことを考えると、性別による扱いの差異の問題は、厳格な審査基準で違憲性を判断する必要があるでしょう。

 

 今回の補助の目的は安全な住まいの提供による志願者増のようですが、あえて女子の志願者を増やすべき理由があるのでしょうか。

 別に女子に限らず志の高い人の志願者を増やせばよいのではないでしょうか。

 それに多様性の確保と言うなら、東大合格者の少ない地域の人や(東大京大出身者の割合は最高の県と最低の県で40倍もの差異があるし、東大出身者の約6割ほどが関東出身、3割近くが東京出身であるため地域による差異があまりに大きい※1)、東大合格者の少ない低所得の家庭出身者(世帯年収450万円は13%ほどしかいない※2)に対して経済的な支障をなくし、東大を志願させ、地方民の観点や低所得者の観点を取り入れて多様性を確保すべきではないでしょうか。あえて女子に限定して志願者を増やすべき必要性がどれだけあるのか怪しいです。

 こういうことを考えていくと、やむに已まれぬほどの目的があるとは言い難いのではないでしょうか。

 

 仮に目的がやむに已まれぬものと言えたとしても、やはり女子だけに対象を限定するという手段を取る必要があるのかは怪しいです。

 勿論、女子は男子に比べて痴漢など犯罪被害に遭いやすいという特徴はありますが、そうはいっても男子だっておかしい人に絡まれる恐れが十分にありますし、所詮は程度がやや違うだけで男子にとっても安全な住まいの提供は当然大事です。男女の違いを考慮して求められる安全性が変わると考えたとしても、せめて女子に3万円、男子に2万5千円を補助するという形にするべきでしょう。

 それに、所得制限を設けないというのはやはり不可思議です。お金がなくて東大受験を断念するのを避けようというなら、裕福な家庭の女子には補助をする必要などないでしょう。大学以外にも安全性の高いマンションなどいくらでもありますし、裕福な家庭出身者ならそこと契約すればいいだけの話です。

 そんなことを考えると、女子だけに所得制限なく補助をするというのは目的達成のため必要不可欠の手段とはいえないのではないでしょうか。

 

 私は学者ではないのであまり偉そうなことは言えませんが、今回の補助は性別によって合理的でない扱いの差異を設けるものであるとして憲法14条1項に違反するおそれまであるでしょう。

 そんな重大な問題のある政策を平然と行うべきではないに決まっています。

 

 

○天下の東大ですら「多様性確保=女性活用」の発想しかないのか

  今回の家賃補助は、女子学生の志願者増を目的としていますが、何故女子の志願者を増やすかと言うと多様性確保が理由のようです。

 しかし、下の記事で書いているように多様性確保=女性活用とは限りません。

 ただ性別が女なだけの人を増やすよりも、もっと多様性確保としてより良い手段があるのではないでしょうか。それなのに東大ですら安易に多様性確保=女性活用と考えているように思えてしまうのが残念です。

 

 特に東大の場合、上でも少し述べましたが、入学者の関東出身者・高所得の家庭出身者の割合がすごく高いです。

 私は関西出身ですが、関西人だと東京で暮らすお金がないから、東大に行けそうでも京大を目指すパターンが実に多いです(勿論、問題の傾向や合格確実性も考慮しているのでしょうが。)。※3

 統計を見ても、大阪、京都、奈良、兵庫の公立高校の進路先としては圧倒的に京大比率が高く、東大にはほとんど進学していないのがわかりますし、別に私の周りに限った話ではなく関西には広くそういう傾向があるのでしょう。

 

 多様性確保と言うのなら、東大受験を断念することがないよう地方民や低所得者層を救済し、地方出身者や低所得者の観点を取り入れることで多様性を図るべきでないでしょうか。何故女子だけで多様性確保を図るんだという話です。

 

 

○そもそも多様性はそれほど必要なのか

 多様性多様性と言いますが、そもそも多様性がどれだけ必要なのかも怪しいでしょう。

 多くの研究では性別などまるで関係ないでしょうし、だいたい研究の分野に男だ女だを持ち出すのはナンセンスです。男か女かなんて特に意味を持たないことがほとんどでしょう。

 

 女性目線が必要になるものなどほとんどないでしょうし、もしあったとしても現在でも20%いる女子や女性的な思考をする男子の存在で事足りるのではないでしょうか。

 それに伊藤忠の現社長岡藤正広氏のように妻の意見を取り入れて女性の英知を利用する手法だって取れるわけですし、性別が男性だからと言って女性目線を取り入れられないわけではありません。

 

 

だいたい女子比率が低いのは金の問題じゃない

 今時女だから大学に行くお金を出さないなんてことはほとんどないでしょうし、事実進学率も男女でそれほど大きな差があるわけではありません(ド田舎ならまだ女子冷遇が残っているところもあるかもしれないが、そんなところではそもそも東大にまで行ける人はほとんどいないから東大の女子比率にはほぼ影響していないだろう。)。

 経済面で女子が割を受けているから、東大の女子比率が低いという側面はあまりないでしょう。

 

 それよりも問題は親の意識や社会の風潮、社会構造でしょう。

 というのも、男子については「男は稼いでなんぼ。仕事で活躍してなんぼ。やからしっかり勉強してよい大学に行かなアカン」という観念があります。

 親も教師も男子に対しては厳しく教育するし、そういう観念を受け止めて男子側も自分が社会で価値ある人間になろうと必死に勉強するものです。

 私も周りを見ていて常々思いますが、人生を懸けて必死に勉強するような人はだいたい男子ばかりです。

 

 それに対して、「女は別に子供産んで育てればいいし、大学もそれなりでいい。仕事もホワイトなところに行ってそれなりにやればいい」という観念があります。「女子で浪人させるのは可哀相」みたいなことを言う人もいますし、「男子なら大学受験で必死に勉強させるけど、女子にそれやらせるのは可哀相だからエスカレート式の学校に入れよう」という親も少なくないでしょう(最近だと、ナインティナインやべっちもそんな発言をしていた記憶があります。お子さん男の子だけど。)。

 そのせいでバリバリ働いても仕方ない、仕事でキャリアを積む前段階として東大に行っても仕方がないと思う女子は実に多いです。そのせいで男子に比べるとやはり死に物狂いで勉強してよい大学に行こうとする人の数は限られています。そら努力しても意味がないどころか、婚期が遅れ社会において負け組扱いされるかねないのだから、あえて最難関の東大を目指すような割に合わないことをしようと思わないでしょう。実に賢明な選択です。

 

 金銭の問題がないとは言いませんがそれは女子に限った話ではないですし、本気で大学受験に取り組んでいて東大も視野に入れられる人は男子が多いので、むしろ男子の方が金銭の問題で東大を断念するパターンが多いでしょう。

 周囲の意識、社会の風潮、バリバリ働ける選択をしづらい社会構造にこそ問題があり、そこを改善しないとどうしようもありません。

 

 あとは男子の方がとびぬけてできる人もとびぬけてできない人も多いという特性が影響しているでしょう。

 東大レベルともなるとやはり努力だけではいかんともしがたい側面が大きいので、元々の能力の高さの面で東大に入れるだけの頭脳をもった人には男子の方が多いというところがあります。

 東大ぐらいの難易度ともなると、男子の比率が高まってしまうのはやむを得ないのです。

 

 

○さいごに

 自分自身が非関東出身で貧乏人であり、周りにも東大に行けそうなのに金銭的な理由から京大を目指す人が少なくなかった身としては、女子だけじゃなく地方民全体、低所得家庭出身者全体に補助を出せよと強く思います。そちらの方が広く国民に機会の平等を保障できますし、公平性があります。

 

 一応、東大はすでに年収400万円以下の家庭出身者については学費免除の策を取っていて、一定程度低所得家庭出身には配慮しているのですが、学費免除になっても生活費負担が重すぎるのでまだまだ足りないんですよね。

 強引にまとめると、女子以外にも金に困っている人には補助を出せということです。 

 

 

※1:データえっせい: 東大生の出身地域の偏り

※2:東大生の親の年収|年収ガイド

※3:私はそもそも東大を目指せるスペックがまるでありませんでしたが、学部を選ばなければ慶応や早稲田に受かるだけの頭脳が当時はあったので(さすがに法学部は受かるか怪しい)、関東出身であればそもそも国立を目指すこともなく慶応か早稲田に進学していたと思います。はっきり言って金銭面の問題で慶応や早稲田を断念しています。こんな感じの人は地方にはいっぱいいるでしょう。

冷静に考えて東京と地方の有効求人倍率・賃金格差は酷すぎると思う 地域によってチャンスの数が違いすぎる

 ここ数年は有効求人倍率が改善しており、新卒者を中心に就職状況はマシになってきました。平成27年度の有効求人倍率は1.23(パート除いても1.08)と平成22年度の2倍ほどとなっています(もろにリーマンショックの打撃を受けた世代としては人生の難易度違いすぎるだろと怒り狂いたくなるものです。)

 

 それでも地方を見るといまだに有効求人倍率も平均賃金も低いところが多いですし、指標を見るたび「東京と地方との格差があまりにも酷い。都会で暮らせる人と地方を抜け出せない人とではチャンスの格差が酷すぎる」、「若い人が都会に行くのは至極当然」と痛感する限りです。

 そこで、今回は地方格差の話をしたいと思います。

 

 

1.地域によって有効求人倍率に2倍以上もの差がある

 2013年での統計を見ると、倍率最高の東京と最低の沖縄とでは有効求人倍率に2.5倍ほどの差がありました。

 現在では正社員の有効求人倍率こそ大事だという意見も多いと思うので、2016年4月時点での都道府県別の正社員有効求人倍率を調べましたが、こちらでも東京都が1.16あるのに対し沖縄は0.33しかなく、東京都の半分ほどの数値の都道府県もかなりの数ある状況です。

都道府県別の正社員有効求人倍率

 

 当たり前のことですが、有効求人倍率が1を下回り、そこから下がれば下がるほど、限られた座を奪い合うために競争は激しくなり、頑張っても仕事に就けない人の割合は増えます。

 東京では人不足に困っているところが多く仕事を割とすぐ見つけられたとしても、地方ではそうもいかないのです。

 

 

2.平均賃金にもとんでもない差がある

 一般労働者(契約社員派遣社員)の平均賃金を見ても、2015年の東京の男性は421万なのに対し、下位5県は260万ほどしかありません。

 東京を除く上位5府県でも350万円ほどであり、下位5県とは90万円ほどの差があります。

都道府県別・一般労働者の平均賃金をグラフ化してみる(2016年)(最新) - ガベージニュース

 

 平均だとどうしても高所得者の影響で数値が跳ね上がってしまいますし、労働時間の長短とか業種とか細かい条件を見るべきと言えそうですが、そういったことを考慮しても、この差はあまりに大きくないでしょうか。

 

 

3.要するに田舎には良い職があまりない

 有効求人倍率も平均賃金も低いということは、平たく言うとそれだけいい感じの収入を得られる職が少ないということでしょう。

 「田舎でまともな暮らしができるのは公務員と銀行員ぐらい」という皮肉はよく言われていますが、田舎では中小企業が多く、賃金が低いのにさらに労働環境も悪く安定性までないというろくでもない職が多いので、残念ながらある程度は的を得ている部分があります。安定性があったり、賃金が高かったり何か秀でた部分があるだけでも良い方なのです。

 

 しかし、今や公務員試験大激戦区であり、倍率が30倍を超えるようなところも珍しくありませんし、銀行員などの収入に恵まれる職に就くのも容易ではありません。

 そして、その貴重な座を取っていくのはだいたい結構いい大学出身の人たちばかりですし、田舎の出身者が地元で就職しようと思っても、満足いく職に就ける難易度はかなり高いのです。

 

 

4.地方を抜け出せないのは自己責任なのだろうか

 「そういった事情がある以上、よい条件の雇用の多い都会に出ていくべき。それをしないのなら自己責任であって文句を言うべきではない」という意見も当然あるでしょう。

 しかし、東京に生まれ東京で育ち当然のように東京付近で就職を探せる者と、沖縄などの地方に生まれ育った者とでは、都会で就職を探すハードルの高さが違います。

 

 大学で都会に引っ越してそのままそこで就職活動をすればよいわけですが、ただでさえ学費が高いと問題となっており今では大学生半分ほどが学費ローンを組んでいる状況で、家賃や生活費の負担がかかるわけですから、経済面の負担は非常に大きいです。

 事実、東京神奈川千葉埼玉では大学進学者の9割が私立大学へと進学しており、割と平然と私立大学に進学できる環境がありますが、それ以外の地域となるとその限りではありません。四国中国九州では5割から7割ほどしか大学進学者のうち私立大学への進学者はいませんし、東京の私立に行ける学力があったとしても経済面の問題から地元の国公立を選ばざるをえない人が少なくないと推測されます。

データえっせい: 国公立大学志向の都道府県比較

 

 地方住みでも東京などに就職活動をしに行けばいいじゃないかと言う方も多いでしょうが、学生のことなど御構い無しに東京や大阪ぐらいしか説明会を開かない企業は実に多いです。しかも事実上の第1選考になっているパターンも多いので、参加しないのも難しいのです。

 往復の時間と費用、滞在費等を考えれば、どうしても東京等に住んでいる人たちよりも説明会に行ける数、実際に選考に行ける数が限られてくるわけで、住んでいる地域によってチャンスの数が変わってくるのです。

 

 結局、田舎出身というだけでそういうハンデがあるわけで、簡単に地元を抜け出せる人ばかりではないわけです。

 さらに貧乏だったり、親の介護が必要だったりするといつまでたっても地元からの脱出は難しくなるでしょう。そういう人って今や有り触れた存在ではないでしょうか。

 

 

 自分の生まれ育つ地域はまず選べませんし、地元を離れ良い条件の雇用の多い地域で就職活動ができるかは親が十分にお金を持っているかによって大きく左右されるわけです。

 地域によってこれだけ差がある上、地元を抜け出してよい条件の雇用の多い地域で満足に就職活動をできる人ばかりでないのに、「良い職がないし就けない」という人をことごとく自己責任で切り捨てるのは適切ではないでしょう。

 

 関東でも関西でもどこの大学でも自由に進学しその地域に住めるという前提があれば自己責任と言ってよいのでしょうが、そういう前提を満たしている人は多くないでしょう。

 地域や親の問題が大きいことも多々あるのに、そんな事情など無視して「地元から抜け出さないのは自己責任」と言うのはいくらなんでも乱暴すぎないかと思います。

 機会の平等が十分に保障されてから自己責任というならわかりますが、機会にあまりにも差がありすぎるのに、その際を一切無視して自己責任の一つ覚えで糾弾するのは不適切ではないでしょうか。

火災への恐怖心、警戒心が年々薄れていっている気がする

 先日、明治神宮外苑のイベントで火災が発生し子供が一人なくなるという痛ましい事故が発生し、大きな話題となっています。


 今回の事故は、素人が見ても発火のおそれが大きく一気にも燃え上がる危険が強い構造をしていたことから、火災への警戒心の弱さが事故を招いた大きな原因と考えられますが、ふと「火災への恐怖心や警戒心って昔に比べてだいぶ弱まったのでないか」と思ったのでその話をしたいと思います。

 

 

○20年ぐらい前はもっと火災を恐れていた気がする

 今でも火災は人々の脅威であり、危険なものとして警戒されていますが、私が小学生やそれより小さかった時のことを思い出すと、人々はもっと火災を恐れていて火災を警戒していたように感じます。

 

 「火災だけはアカン、気を付けろ」という風潮が今よりも強くあったと思いますし、ストーブで必ず火が消えたか確認しろ、ガスの元栓をちゃんと閉めろなどとかなり強く言われたものです。

 大人たちの火災を生じさせない意識はすごく強かった気がします。

 

 

○火災に関する環境の変化が意識の変化につながった?

 それなのに今では昔ほどは火災への警戒心がなくなった、なぜだろうと考えましたが、おそらく環境面の変化が大きいでしょう。

 というのも、20年ぐらい前はまだ石油ストーブが数多く普及していましたが、今は電気ストーブがとんでもなく増えており、比較的火災の危険は小さくなっています。

 コンロについてもIHが浸透し、これまた直接火を使わないため火災の危険を小さくすることに成功しています。

 

 それに住宅のことを考えても、耐火性能の高い建物は増えましたし、火災警報器の設置が2006年に義務化したこともあって、仮に火が発生しても大規模になる前に沈静化しやすくなりました。

 あとは喫煙率が低下して、火災を生じさせる原因となるものが減ったからというの結構大きいかもしれません。

 

 実際、火事による被害数を見てみると、やはり昔より少なくなっており、平成16年度に6万387件あったのが、平成26年には4万3,741件まで火災の数が減っているため、20年と言わず10年で状況はかなり改善されました。

第1章 災害の現況と課題|第1節 火災予防|[火災の現況と最近の動向]

 

 要するに、火災を生じさせる原因となるものが減り、火災の発生数が昔に比べ減ったことから、自然と火災への意識が減り恐怖心や警戒心も減っていったのではないかと思われます。

 

 

○昔の悲劇が昔すぎて重く受け止められなくなった?

 災害というものはどうしても年を追うごとに警戒心が弱まってしまうものであり、過去の災害の体験や教訓を後世に伝えることがすごく重要なわけですが、衝撃的な事故や事件も時間が経てば印象に残らなくなるものです。

 火災についても、過去にはとんでもない惨状となった大規模な事故がいくつもあり、その分昔の人は火災への意識が高かったものの、今ではすっかり惨状を忘れてしまった感があると思います。そこらへんが今と昔の恐怖心や警戒心の強さの違いを生んでいるのではないでしょうか。

 

 例えば、昭和の出来事を考えてみると、桜木町の列車火災、千日前デパート火災、大洋デパート火災、川治プリンスホテル火災、永田町のホテルニュージャパン火災など大規模で長く人々の記憶に残り語り継がれる火災被害は度々生じていましたし、そこまで大規模なものでなくても身近に火災は発生していました。

 それ以前についても、日本では木造建築が多かったこともあり、長らく日本人は火災との戦いを強いられていました。戦時中は焼夷弾による被害が非常に多かったですし、江戸時代までさかのぼれば明暦の大火や明和の大火など頻繁に大火が発生し多くの損害を出し多くの悲しみに包まれてきた歴史があります。

 

 そういうこともあって、昭和や平成の最初のころまで、長らく火災の恐怖、警戒が残り続けたのでしょう。

 そこが今とは恐怖心や警戒心の強さの違いになっている気がします。

 

 

○あまり身近でなくなっただけで、当然今でも火災は怖いまま

 今では火災の被害がだいぶ減り、人々は火災の恐怖が薄れた時代で暮らしており、若い世代を中心に、火災が生じるのではないかという意識や危惧感が薄れているように思われますが、時代が変わっても火災が危険なことに変わりはありません。

 一酸化炭素で簡単に人は死ねますし、やけどの苦痛はすさまじいですし、焼死はもっともむごい死に方と言われています。

 

  あまり身近さがなくなり恐怖や警戒しなくなったとはいえ、危険なものは危険と思い、警戒心をしっかり持たないといけないと今回の事故で改めて考えさせられました。いやいや動画は見るものじゃないですね。

移民の受け入れ云々を言う前に、外国人も逃げ出す労働環境をどうにかしないといけないのではないか

 以前から技能実習制度については違法行為、人権侵害の横行が問題視されていましたが、失踪者が5年で1万人を超えるという衝撃的な統計が発表されました。

 

 中には最初から失踪を計画していたような人もいるでしょうがそれでも5年で1万人と言う数字はあまりにも多すぎですし、いかに失踪しそうな人間は審査段階で受け入れを拒否するでしょうから、とてもではないですがそういう人ばかりではないでしょう。

 具体的な割合はわかりませんが、多くは労働環境の酷さから失踪したのではないでしょうか。

 

 日本では最近、少子化により働き手が減ることの対策として移民の積極的な受け入れがぼちぼち議論されるようになってきましたが、事実上労働者として受け入れている面も多い技能実習制度がこのありさまであることを考えると、移民を受け入れてもその移民が失踪するじゃないかという話です。

  インドネシアやフィリピン、ベトナムなどからの看護師の受け入れのケースもそうですが、本格的な移民の受け入れ云々の前に外国人に敬遠される労働環境の改善をしなければダメでしょう。

 

 

 だいたい日本はこの20年平均賃金が上がるどころか下がっています。20年で賃金を倍増している国も少なくなく、日本は相対的に見て豊かな国ではなくなっています。

 今では購買力平価ベースで世界20位ほどであり、イスラエルやイタリアレベルにまで落ち込んでいます。

世界の平均年収 国別ランキング・推移 - Global Note

 

 バブルの時の感覚で未だに日本の賃金は高いと思っている人は実に多いですが、アジア諸国と比べても賃金格差は年々縮まっているのが現状です。20年前には比べ物にならなかった韓国などとも差がかなり詰まっています。この20年でどれだけ日本が落ち込んでしまったのか統計を見て学んでほしい限りです。

 10年後20年後には、経済発展の著しいタイなどと比べてももっと差が詰まっているでしょうし、賃金面での優位性は今より下がります。今でさえ20年前とは比べ物にならないぐらい下がっているというのにです。

 

  そんな中、労働環境がゴミくずのままだと、とてもではないですが日本にわざわざ移民に来ようとは思わないでしょう。

 善良な人ほど日本よりもっと良い条件で他国で働くはずです。

 

 

 そんなわけで労働環境をまともなものにしないと、今後はそもそも移民すら寄り付かないおそれも強いのです。まともな人材は他国に奪われ、本当に困窮の限りを尽くしている難民ぐらいしか来なくなるかもしれません。

 言葉は悪いですが、このままだとモテもしないのに自然と人が言い寄ってくるとでも思っている勘違いブスみたいなことになりかねません。

 

 まずは労働環境をまともなものに近づけ、ゆくゆくは外国人が是非とも働きたくなるような労働環境にしないといけないでしょう。

 賃金の高さで勝負できなくなってきていて、今後はさらにその傾向が強まるわけですから、せめて環境面はよくしろという話です。

 

 まあ、自国民についても、安心して子供を産み育てられるような経済的精神的時間的にゆとりのある労働環境があまり整えられていない現実があるので、自国民の労働環境をまず改善すべきなのでしょうが。

体罰や暴力的手法ってそもそも必要性がどれぐらいあるのだろうか 必要性とかほぼないではないか

 近年では体罰の禁止の圧力が強まっており、教育現場ではかなりの程度体罰が排除されてきています。

 家庭ではまだ見過ごされているところが多いですが、それでも体罰は基本的に許されないとの観念は広まってきています。

 

 体罰というのは、暴行罪などに該当する犯罪行為であり(犯罪は構成要件に該当する違法かつ有責な行為と定義されているため、発覚するか否かは関係ない)、それだけで強く糾弾されるべき行為ですが、反抗できない関係性を利用したものであって、かつ、身体的精神的なダメージを長い間残し続ける恐れもある点で特に悪質な行為ですので、禁止の流れは当然だと思いますが、そもそも体罰及びハラスメントのような暴力的手法の必要性ってどれだけあるのか個人的には凄く疑問に思っています。

 

 というのも、殴らないと分からないほど愚かな子、言葉を悪くすると「頭の悪い子」って一体どれだけいるのでしょうか。

 

 

○基本は「話せばわかる」が通じるのでは?

 物心ついてまだ少しと言う子であれば、確かに話をしても理解してくれないことは少なくないと思いますが、小学校高学年、中学生にもなれば話を理解できる頭はあるはずです。知的能力に問題がなければ、ちゃんと話せば理解できる頭脳をもった子がほとんどではないでしょうか。

 

 勿論、何を言っても言うことを聞かない素行の悪すぎる人も中にはいるので、本当にどうしようもない者に対しては体罰も必要になるかもしれません。私も公立中学出身ですし、ごく一部にどうしようもない人間がいることはわかっています。

 しかし、そこまで素行が悪く人の話を聞かないようなろくでもない子っていうのはそんなにいるのでしょうか。

 

 ちょっとやそっと柄が悪かったり、態度が悪かったり、性格が悪かったりする程度であれば話は通じるのではないでしょうか。

 すぐさま「こいつは言ってもわからない」と一瞬で判断するのはどうかと思います。というか、そもそも体罰を下すような人というのは、そういう「話が通じるか」否かという判断すらせずに感情に任せて行動しているだけの人がほとんどでしょう。

 教育や指導というのは、身体的精神的打撃を与える形で行うべきではないですし、後に悪影響を与える恐れの大きい手法はリスクが高いのでできるだけ避けるべきです。まずは言葉でわからせるだけの努力をしっかりすべきではないでしょうか。

 

 

○ほかにより有効な手段がいくつもある

 それに手を下すという野蛮な手段を取らずとも、例えば部活動でいえば、試合や大会に出さない形で教えればよいでしょう。

 まじめに練習をしなかったり、身勝手な行動ばかりとって周りに迷惑をかけていたりすれば、スタメンは勿論ベンチからも外す。反省するまで試合に出さない。そういう形を取る方が本人にとって痛手でお灸をすえられるでしょう(最近だと、モンスターペアレントが抗議してくるかもしれませんが…)。

 

 また、成績が悪かったら小遣いをカットする、逆に良い成績を取ればプレゼントをあげるといったように飴と鞭を使い分ける方が、殴ったり蹴ったり暴言を吐いたりして無理やりやらせるよりも自発的かつ積極的に動くのではないでしょうか。

 

 それに小さい子でも、悪いことをしたときに「鬼に連れて行ってもらう」などスピリチュアルな脅しをすればだいたいいうことを聞くでしょう(あまりやりすぎるとトラウマになるのでダメですし、本当に置き去ったりするのは北海道の某失踪事件みたいな事態を招くのでいけませんが。)。

 

 こんな風に殴るなどの行為よりも教育効果の高い有効な指導方法はいっぱいあるように感じます。

 知能の低い動物なら殴ったりして教えないと教育できませんが、人間相手ならもっと適切な教育、指導方法があることがほとんどでしょう。まずは、より有効な手段を用いるべきであり、あえて効果が薄くそれなのにいろんなリスクやデメリットの大きい手法をとるべきではありません。

 

 

○暴行等に打って出ないといけないほどのことなのか

 人を殴ってはいけない、人のものを盗んではいけない、人を侮辱することを言ってはいけないといった絶対にやってはいけないことは、とにかくすぐ強く教え込ませないといけないので、体罰を使ってでも教えなければならない場合もあるかもしれません。

 しかし、どんな手段を使ってでも無理やりすぐにわからせないといけないことというのはそれほどあるのでしょうか。

 

 犯罪行為や社会倫理に反する行為を禁止するのならまだわかりますが、勉強をさぼったり、部活で集中力を欠いたプレーをしたりすることなんて、そこまで他人に迷惑をかけることではないですし、すぐさま人生に大きな問題を生じさせることでもありません。言葉で注意をすれば十分対応できるでしょう。

 何度か言っても聞かないよろしくない子でも、さすがにじっくり言い聞かせれば折れる可能性は高いです。

 それでもいうことを聞かなければ、一つ上で書いたような手法を取ればいいのです。

 

 というか、実際には言葉一つで注意すればわかる場合や、ただ気を抜いたとかではなく下手でミスやエラーをしただけの場合でも、なぜかすぐブチ切れて暴行や暴言に出る人がほとんどでしょう。しょうもないことで感情的になっただけで、実際には教育でも指導でもなんでもないただの大人によるストレス解消というパターンが非常に多いと思います。

 

 

○こういったことを考えていくと

 結局、他のより有効な手段があることが多いですし、あえて人を傷つけストレスを与えその後も暴力で怯えさせ屈服させる野蛮な体罰と言う手法が必要になる場面なんてそうそうないのではないでしょうか。

 必要もないのに犯罪行為をすべきではないし、犯罪にまで至らなくても人の身体や精神を傷つける加害行為をすべきでないでしょう。

 

 私も中学時代の顧問や父親がすぐブチ切れる頭のおかしい人だったので、悪いことをせずともミスをしただけで散々侮辱や暴言を受けましたが、はっきり言って全く身になっていません。役に立ったのはいつも冷静に言葉で悪いところを教えてくれる有能な人の教育・指導でした。

 頭の良い人はもちろんのこと、おそらくそこまで物分かりの良い人でなくても言葉でしっかり理解させてもらう方が身になるのではないでしょうか。

 

 結局、体罰やハラスメントは利益をもたらさず、ただ強いストレスを受け、強い憎しみを抱き、強い怒りを生んだだけです。仮に子どもを授かっても(結婚不適合者なのでそもそも結婚できないと思うけども)、私は父に子の顔を見せるつもりは毛頭もありません。ろくでもない人格をもった人に大切な子供が影響されてはいけませんからね。

「選ばなければ仕事はある」とかいう人は、具体的にどんな会社があるのか教えてほしい っていうか就職を斡旋してほしい

 世間ではいまだに日本の景気が良かったころの感覚が抜けないのか、無職者やフリーターに対して「選ばなければ仕事はある」と言う人が少なくありません。

 しかし、実際に一時期ハローワークに通っていた身としては、「そんな良い会社があるなら教えてよ」、「っていうか就職を斡旋してよ」と声を大にして言いたいので、少しばかり語りたいと思います。

 

 

1.「仕事がある」と言う人は求人を見たことがあるのだろうか

 よく思うことですが、「選ばなければ仕事はある」という方の一体どれだけが実際にハローワークなどの求人とか見たことあるのでしょうか。そして、四半世紀前やそれ以前などではなく、現在の若者の就職を取り巻く状況を分かったうえで発言しているのでしょうか。

 おそらく若者向けの求人など見たことない人が大半でしょうし、ろくに若者の現状も理解していない人が多いのではないかと思います。

 

 私は法科大学院卒でしかも公務員試験に全落ちしたこともあり、実際にハローワークも使って就職先を探しましたが、大卒の人が行きたがる求人なんて地方ではほとんどないですし、仮にあったとしても応募の数がとんでもないことになっていました(当時は金がなかったので地方しか選択肢がなかった)。

 具体的に言うと、資格があっても大卒でも時給換算で800円や900円ほどで、しかも週休完全二日制でなく有休何それおいしいの状態の企業がとんでもなく多いですし、それでも応募が殺到するありさまでした。

 若ければまだ何とかなる可能性はありますが、性別によっては問答無用で切られますし(求人上は性別不問にするしかないが、実際には当然性別によって差別している)、経験者でもないのに採用されるのは困難です。

(ついでにいうと、私が入社したのはそれに加えて違法行為上等、パワハラ満載、残業代全額支払わないというなぜ辞めないとでも思ったのが理解不能なレベルな会社だ!行政書士の資格とはいったい何だったのか。)

 

 額面で月15万円行かないのは普通ですし、15万円あればいい方で、もし18万もあれば万々歳という感覚であり、一人で暮らすのもやっとの労働条件のところが大半です。とても家庭をもち家族を養える余裕などあるはずもないです。

 そんな会社でも応募が殺到して、採用されない人はいっぱいいるわけで、贅沢を言って選りすぐりをしているわけではなくても、仕事はなかなかないのです。

 特に学歴や資格がなかったり、若くなかったり、病気を抱えていたりする人は、選ばなくても仕事はありません。

 

 

2.仕事があるならひとまず応募するから教えてくれ

 地方では一人で暮らすのも大変という労働条件が多く(都会は都会で住居費がかかるので実家住みでないとキツイ)、50代以上の人にとって「まとも」といえる仕事はかなり少ないです。実態はその日暮らしに近く、家庭なんてとてももてません。子どもは贅沢品です。

 そして、良くない労働条件でも人が群がる(言葉が悪い)わけでして、「まとも」でない仕事すらなかなかありません。

 

 そんな中、「まとも」といえる会社が本当にあるのなら、是非ともそれを教えてくれという話です。憶測や妄想で「選ばなければ」云々というのではなく、実物を紹介してくれと言いたくなります。

 正社員になれなかったり、思うように働き口を見つけられずに苦しんでいる者にとっては、とにかくまともな働き口が欲しいのです。誇りをもって健康で文化的な最低限度の生活がしたいのです。

 そんな人にとって、「選ばなければ仕事がある」なんていう妄言はただのストレスにしかなりません。「何言っているんやこいつ。頭悪すぎやろ」と間違いなく思われていることでしょう。

 

 

3.とにかく欲しいのは仕事である

 仕事がなかったり、よい歳してフリーターというのは、本当惨めな思いをすることが多いですし、肩身が狭く、焦り不安劣等感に襲われます(詳しくは下の記事をご覧ください)。


 そんな中、その日暮らしではない、アルバイトの労働条件よりも良い職があれば、当然飛びつきたくなります。

 というより、「何とか就職を斡旋してくれませんか」と言いたくなります。

 ましてや50代以上の人からみても「まとも」と言えるような労働条件は、無職期間が長くなってしまった人やフリーターにとってかなり貴重です。

 

 仕事を探している人にとっては、とにかく少しでもまともに近い労働条件の会社の下で働きたいのです。

 「選ばなければ仕事はある」なんて妄想の話をして時間を潰させるぐらいなら、1つでも2つでも就職をあっせんしてくれという話です。こっちは早く働いて稼ぎたいんだと言いたくなります。

 

 

おまけ

 私の場合、在籍した会社があまりにもアレだったので一ミリたりとも後悔はありませんが、一般論としては下のような事態になりがちなのでやはり退職は慎重に考えるべきだと思います。

 私の場合ですら死ぬほど嬉しかったのは最初の1週間だけでした。仕事がない人はこんな精神状況なんですよ。必要なのは発破をかけることではなく、(良き)就職をあっせんすることなのです。


じっくり考えても迷うときはどっちを選んでもよい説

 人が社会生活を営む上で複数選択肢のうちどれかを選択しなければならない局面に直面することは多々あります。

 そういったときに、どちらを選ぶかじっくり考えてもなかなか答えが出ないこともありますが、それでもどちらかを選ばなければならないという事態も少なくありません。

 

 頭を悩ませる問題ではありますが、そういった場合では割とどちらを選んでも別に構わないことも多いのではないか、どっちかをきっぱり選んでそのあとも後悔しないようにするのがよいのではないかという話をしたいと思います。

 なお、きっぱり決断したせいで悪い結果になっても私は責任を取りませんし、重大な決断に関しては参考にしないでください。

 

 

1.じっくり考えても迷うということは、どちらも悪くない

 どちらかの案に大きながあったり、どちらかの案がすごく優れていたりすれば、じっくり物事を考え、他人に助言を求め、色々調べればどちらを選ぶべきかの結論がでるはずです。

 ですが、そういったことをしてもなおもどちらかの案がよいという結論が出ないということは、どちらの案もそれ相応の根拠があり、どちらも説得力があるという可能性が高いです。

 そのため、どちらを選んでも間違いではない可能性が高いと思われます。

 

 例えば、手を汚したくないからきのこの山を選ぶのも一理ありますし、触感を楽しみたいからたけのこの里を選ぶのもありです。

 どちらを選んでもおいしいお菓子を食べられるわけで、どちらを選んでも別に間違いではないのです。私はたけのこのほうをお勧めしますが。

 

 

2.悩む時間がもったいないことも少なくない

 先ほど述べたようにじっくり悩んでも答えが出ないということは、どちらもありな場合が多く、どちらを選んでも特に問題がないことも多いのです。

 それなのに、なおも悩み続け答えの出ない問題に時間を費やしすぎても仕方がありません(悩む時間が楽しいという場合は別ですが。)。

 

 司法試験の問題なんかでもそうですが、結論は別にどっちでもいいという問題は世の中に多く存在します。

 きっぱりどちらかを選んで選んだ道を直走り、悩む時間を他のことに費やす方が良い場合もあるのです。結論どっちもあり問題なのに、きっぱりどちらを取るか決断ができなかったせいで時間不足に悩まされたトラウマがよみがえる…

 どちらかを選ぶか悩むよりも、どちらかを選んだうえでその道で上手くいくよう頭を使う方が有益な場合もあると考えましょう。

 

 

3.ありな選択肢を選んだ以上、結果が上手くいかなくても判断は間違っていない

 下の記事でも書いていますが、そのときにおいて合理的な選択をした以上、結果が出なかったとしても判断には問題ないわけですから、自分に過失はありません。結果論として処理すべきです。

 

 それに、もう一つの選択肢を選んだところで同じく失敗していたり、今以上に酷い事態になっていたりする可能性も十分にあるわけで、一度決断した以上は後悔しても仕方がないですし、過去を振り返らない方が精神衛生上良いと思います。 

 きっぱり選んでしまって、あとは知らんと開き直ったほうが人生が楽になるのではないでしょうか。ひたすら悩みぬいたり、後悔しまくってたりしてもマイナスな影響ばかりが大きい気がします。

 

 

 私は幼少期貧乏で買えるものが極めて限られていたこともあり、買い物のときは常に最善の選択肢を選ぶのに全力を尽くす習性が身についていて、傍から見ればとんでもなく優柔不断な人間でしたが、だいたいじっくり考えても迷ったときのことを後になって考えると別にどっちでもいいことは非常に多かったように思います。

  人生における重大な決断を考えてみても、資格や公務員試験のことを考えれば法学部でよかったと思いますし、仮に経済学部ならそれはそれで自分に合っててよかったんじゃないかと思います。どっちを選んでも正解だったと思います。

 

 逆に、大卒時に仮に民間企業への就職を志していてもどうせうまくいっていない気しかしないので、院進学も就活もどっちを選んでも地獄だったでしょうし、どっちを選んだところでダメだった気しかしません。

 あれ?これだと迷ったらどっちを選んでも良い説じゃなくて、どっち選んでもアカン説な気がしますね。

 

 重大な決断についても、割とどっちもありだったということはあるわけでして、ましてや日常のどうでもいい決断なんかは、そこそこ考えても甲乙つけがたいときは、さらに深く悩むことをせうにもう適当にどっちかを選んでおけば良いのでないかと思います。

新作を書けなくなるのはなぜか クオリティーに満足できない病

 いつまでたっても新作を出さない小説家や、事あるたびに休載する漫画家、いつの間にか活動を休止している動画投稿者、記事の投稿がすぐ止まるブロガーなど世の中にはクリエイティブな活動がすぐに滞ってしまう人が少なくありません(最後については耳の痛い話だ)。

 人気絶頂の中、相次ぐ延期を繰り返し結局4年後になるまで新刊を出さなかった人気ライトノベル作家や、年間休載率100%を記録した大御所漫画家など私がぱっと思いつくだけでもかなりの数そういう人がいますが、この手の物書きの人は何故作品が滞りがちになるのでしょうか。

 

 よく言われる理由は、サボりやスランプ、不評となる恐怖、お金を稼いで満足したなどですが、そのような理由だけで作品を出せなくなったのでしょうか。

 個人的には、色んな理由がある中でも、特にクオリティーに満足できない病的な考えが大きく影響していると思うのでその話をしたいと思います。

 

 

 ○いいものを作れる人は細部まで見えすぎてしまう

 新作が滞りがちになる人の作品を見ると、漫画でも小説でもそうですが、細かいところまで気が配られていて、細部まで練られている傾向が強いです。「このキャラがこんな場面でこんなこと言わないだろ」みたいなことはまずないですし、「よくここまで考えたなあ」と楽しめたり感心させられたりすることが多いです。

 アマチュアばかりの動画投稿者でもそういう傾向があり、投稿間隔が広くなる人ほど、いろんな画像や音源を取り入れて編集に凝っているものです。

 

 新作が滞りがちになる人というのは、作品をバンバン出す人よりも、細かいところまで神経がいき通っており、詳細部分まで問題点や改善点を見つけられるからこそ、「ここはこういう表現・言い回しの方がいいんじゃないか」、「ここはこういう展開にしたほうがわかりやすいんじゃないか」といった無数のアイデアに対処する必要性に迫られるため、一つの作品を作るのに考える時間が増え、思考錯誤・トライアンドエラーの数が増えるのです。

 

 要するに、細かいところまで見えて、気になって、じっくり力を入れすぎてしまい、その結果どうしても満足いくものが出来上がるのに時間がかかるのが原因なのです。

 

 

○時間と労力をかければ良いものを作り上げられてしまう人である

 いくら細かいところが気になっても、妥協してしまう習性をもっていれば深くは悩みません。

 それに、完成度を上げきる能力がない人であれば、作品が評価されることもあまりなく、評価をもらう前に心が折れることが多いでしょう。

 

 しかし、時間と労力さえかければよいものを作れる人は、思い通りに作れれば高い評価を受けられることが多いですし、自分自身が満足できるため、とにかく時間や労力をかけてでも作品の完成度を上げたくなってしまうのです。中途半端なものでは高い評価を受け続けられませんし、何より自分自身が許せません。そんなものを出すぐらいならいっそ世に出さないという話です。

 なまじ力があるからこそ、時間と労力次第でよいものが作れてしまい、自分の満足いくものを作れるまで粘ってしまうのです。

 

 

○それでも満足いくクオリティーまで仕上げきるのは並大抵のことではない

  いくら時間と労力さえあれば良いものを作れる人でも、時間は限られていますし、いつでも体が万全の状態とはいきません。

  考慮要素が非常に多く、見つけすぎてしまった問題点・改善点の対処に頭を悩ませ、何度もこれでいいのかと検討すると時間の余裕はまるでなくなります。専業でやってない人やお金儲けをしているわけではない人がひっそりいなくなるのも無理もないです。お金を稼いでいるわけでもないのに、こんなに疲れることをやってられるかとなりますからね。

 

 それに、常に頭がフル回転で体調が良いわけでもないですし、普段は書ける人でも、書けないときはまるで書けません。

  満足いくクオリティーに仕上げようと思ったら、無数のアイデアをまとめあげ形にしないといけないわけで、いくら優秀な人でも脳や体にかかる負担は大きく、いつでもできることではありません

 普段から無理して満足いくクオリティーのものを作っているわけですから、無理ができないとなるとなかなか作品は完成させられないのです。

 

 

○そして疲れ果てていく

 個人的には、文豪と呼ばれた人がよく自殺するのもただの健康問題やアイデアが浮かばなくなったとかではなく、満足いくものにするまでまとめあげるのにあまりにも労力とストレスがかかり、過労状態になっているというのが大きな原因ではないかと思っていますが、自殺まではしなくても、あまりの作業量の多さに苦しめられながら「なぜこんなにもうまく書けないのか」と自分の力のなさを嫌でも思い知らされる経験を何十何百と繰り返せば誰でも精神が疲れ果てるものです。

 

 ブログとか動画程度のことしかしていない私ですらそういう節はありますし、小説を書いてみようと思ったときにはまさにそういう悩みに襲われたので、クオリティーに満足できない→心身の疲弊こそが多くの人が書けなくなる大きな原因ではないでしょうか。

 ただネタが思い浮かばない、評判が怖いとかの理由もあるのでしょうが、満足いくクオリティーにするために、あまりにも多くの思考を行って心身を疲弊させているというのが真相だと個人的には思っています。冨樫先生もただのサボリじゃないんですよ。たぶん。