語られない闇を語る

司法試験、大学受験、労働問題、社会問題などを中心に、あまり語られていない・語りつくされていない闇について語っていこうと思います。苦難と失敗から得た知見を曝け出していく予定です。

センター試験をどう変えていくべきなのか

 試験制度というのはいつの時代も議論になるところで、いかにして優秀な人材を見出すか、いかにして公正を担保するか、いかにして合理性を上げるかが問題となります。

 今日もネットを見ているとこういうまとめを目にしました。

togetter.com

 

 私はその道の専門家や有識者などまともにその分野を勉強してきた人の意見しか見ず、この手の素人の投稿はどうせまともなこと言ってないと思ってスルーするのですが、案の定、昔からある「記憶力のみ見るな人間性見ろ」という意見でしたね。

 この手の意見は幾度となく出されては結局失敗してきたという歴史があるわけなのですが、なぜ人は同じ過ちを繰り返しまくるのでしょうか。

 ネットでも大学現場でも批判だらけのAO入試なんてまさしくこの意見に沿ったものなんですけどね。

 

 一応、いくつか良いことも言っていないわけではないですし、個人的に思うことを書いてみたいと思います。

 

 

・一発勝負が酷なのはまさにその通り

 1年に1回しかチャンスがなく、失敗したらもう1年というのは確かに受験生に酷な制度です。

 優秀な人であっても、本番たまたま病気になったせいで、1年無駄にしてしまうおそれがありますし、プレッシャーは半端ないものになりますのでどう考えても心身に悪いです。

 

 今は何でもかんでも自己責任にする風潮がありますが、いくら気を付けていても運が悪いと人は病気になります。当たり前のことですが、病気の予防にも限界があるのです。

 どれだけ細心の注意をはかっていても、病気になることが予見ができない、病気になるという結果を防げないなんてことは当然あるわけです。

 

 私自身、全く予想しなかった病気のせいで、センターの時は高熱と激痛で苦しめられる羽目になり、人生初の手術も経験しました。詳しい病名は身元がばれるのでいいませんが、風邪やインフルエンザと違って「そんなん予見できるかい!」という病気です。

 自己管理に問題があるならわかりますが、突拍子もなく謎の病気にかかった人や、事故に遭った人など運が悪い人が大損をするシステムは問題があると言わざるを得ないでしょう。

 

 アメリカのSATは1年に7回受験できますし、一発勝負よりも何回も勝負できるようにするほうが、理不尽な思いをする人が減りますし、運ゲー要素も多少は減るのではないでしょうか。

 

 

・記憶力を問うのは仕方がないし、合理的でもある

 センター試験は確かに記憶力が要求されるところが大きいです。

 勿論、いかに素早く問題を解けるかという情報処理能力も重要ですが、国立二次試験ほど高い思考能力は問われないでしょう。

 

 記憶力以外の要素が大事なのは間違いありません。

 しかし、難しいことを理解し出来るようになるには基本的事項の記憶が必須になります。

 それに、何か創造しようとする場合でも、過去にいかなる取り組みが行われどういう結果に終わったか、他の分野ではどのようなことが行われているかといった歴史や情報を知っておく必要性は高いですし、創造というのは幾多もの概念・知識・理解が融合して出来上がるものなので、十分なインプットもなく良い創造ができるわけがないのです。

 当然、どれだけ基本的なことをはっきり覚えているかは大事なことですので、センター試験が記憶力を問う試験になるのもやむを得ないでしょう。

 

 それに、国立二次試験で、深い思考力や、高い創造性など他の重要な要素を問う試験を行うので、センター試験でまずどれだけ基本的なことをしっかり覚え理解し使いこなせるかを問うことは合理性が高いといえるでしょう。

 

 

・高校での成績や授業態度を適切に評価するのは無理

 高校入試では行われていることですが、批判も多いところですね。

 特に高校は学校によって生徒のレベルが全く違います。日本語能力すら怪しく、「将来ここにいる人の多くは犯罪者になるんじゃないか」というようなアカン高校もあれば、「この人たちが日本を引っ張ってくれたら日本は安泰だ」と思える生徒の多い高校もあります。

 

 前者であれば、ちょっと頑張るだけで高校内においては簡単に良い点が取れるでしょうが、後者は校内で良い成績を収めるのは非常に難しいです。

 前者で成績が良かったからと言っても、しょせん井の中の蛙で、他の高校の生徒と比べたらしょぼいなんてことはままあります。

 そういう場合でも、前者の高校にいる本当はしょぼい生徒を、後者の高校にいる本当はすごい生徒よりも評価するのでしょうか?

 それはいかんでしょという話ですが、そうなるおそれは十分にあります。日本に高校はとんでもない数ありますし、高校間のレベルの差を正しく認識する、評価基準が妥当なのか正しく調査するなんてことは困難ですからね。

 

 余談ですが私が行っていた中学校は、市内でも勉強熱心な生徒が多く、そこで高い学内評価を取るのは結構難しいという状況でした。

 それに対し、同じ市内でも闇の深い地域(関西に住んでいる方ならわかるでしょう)の中学校は、休み時間に廊下でバイクが走るようなとんでもなところだったこともあり、大して学力のない生徒でも容易に高い学内評価を得ることが可能でした。

 学力や授業態度は同じだとしても、内申点上は後者の人が圧倒的に有利になるわけです。劣悪な環境でも頑張っているとはいえるかもしれませんが、同じ程度の学力であまりにも大きな内申点の差が出るのに、それが問題視されることなく黙認されているわけです。いくらなんでも公平性が害されすぎでしょう。

 そういうことが大学レベルでも起きて良いわけがありません。所属大学はその人の社会的評価を大きく変えるものですし、当然公平性が守られなければいけないのです。

 

 

・面接試験は不平等をさらに助長する

 まとめでも多くの人が言っていますが、文化的資本や留学などの特殊な社会経験はお金持ちの人の方が多く得られます。

 なので、面接試験を実施すれば、もともと環境に恵まれている人がさらに有利になり、さらに不平等な状態を作り出してしまうのです。

 

 既にAO入試なんかでも「金持ちをさらに有利にしてどうする」と批判されていることですが、大学側が高く評価するだろう芸術活動や留学経験、NPOでの活動なんかはお金がないと満足にできるわけがありません。

 私もそれなりの大学を出てはいますが、留学なんて許してもらえるはずもなく、芸術なんて遠い世界のものですよ。弁護士や医者の父を持つ友人と比べるとはまるで文化的素養が違います。もう戦闘力でいえば、1対530000ぐらいの差ですよ。

 ってなわけで、親に恵まれたかという本人の力でどうにもできないことで、結果が決まってしまうことになってしまいます。

 先進国では、本人の力で変えられないどうしようもない要素によって差別されないことが必ず守らなければならない建前となっています。なのに、親に恵まれたかという本人が変えようのない要素によって、大学入学という重要な事項の結果が変わってしまうのです。

 出身大学が一生付きまとう学歴社会においてそんなことが許されてよいわけがありません。(かなりの程度許されてるのが現状だけどね。)

 

 それに、面接試験では、皇族か否か、有名な学者や経営者の子であるか否か、男か女か、美人か否か、何歳かなどで結果は大きく変わるでしょう。

 面接官になる大学側の人間はたいていおじさんでしょうから、当然ブスよりは美人の方が意識的か無意識かは別にして面接で有利になるに決まっています。

 それに、今の時代だと数合わせのために女ばかりを合格にして、どう考えても男女比のために作為を加えているにもかかわらず「女ばかりが優秀だった(大嘘)」としらばっくれるおそれも十分にあります。現に裁判所事務官などの公務員試験ではそれが行われているわけですから。大学受験でも起きないわけがないと考えるべきでしょう。

 

 あとは、医学部入試でも問題になりましたが、年齢差別が行われる恐れも高いです。医学部は国が多額の予算を使って育成を図るため、かけたお金をペイできるだけ働いてくれる人材をしっかり獲りたいということで一定の合理性はあるでしょう。しかし、面接官もまともな人ばかりではないので、そんな合理性もないのに若い人ばかりを優遇するおそれはありますし、ことさらに高齢についてマイナス評価をすることは十分にあり得ます。

 

 今の制度に問題がないわけではありませんが、面接試験を実施すれば、もっとひどい問題が発生する恐れがあるわけです。

 その問題点をいかに解消するかの説得もなしに、面接試験を実施すればおkとはいかないでしょう。

 

 そもそも10分とか20分とかでどれだけのことを見られるんですかね?

 採用試験なら「この人を働かせて大丈夫か」という観点で見ればいいだけなので、わずかな時間で外面だけ見とけばいいですが、大学受験ではそういうわけにもいかないでしょう。どれだけ大学で伸びるのか、どれだけ熱い熱意を内に秘めているのかはパッと見ではわからないと思います。

 

 

 ってなわけで、「今の制度は問題がある。だからとりあえず面接試験を導入しろ」という主張はあまりに安直すぎます。

 AO入試が各方面から大不評な現状をちゃんと見てくださいという話です。