語られない闇を語る

司法試験、大学受験、労働問題、社会問題などを中心に、あまり語られていない・語りつくされていない闇について語っていこうと思います。苦難と失敗から得た知見を曝け出していく予定です。

貧乏は惨めで辛い思い出を残し、社会に恨みと憎しみを抱かせる

 今はちょうど祇園祭のシーズンですし、他の地域でもこれからどんどん祭りが盛り上がって来る時期だと思います。

 しかし、この時期になると私は、綺麗な浴衣姿に包まれた若く可愛い女を見ては、嫉妬を覚え、辛く悲しかった子どものころを思い出すのです。

 

 

 私が小学生の頃やたら貧乏で惨めな思いをしたことは、前にもちょろっとは書いていますが、祭りの話でいうと自分で屋台のものを買った記憶がありません。

 そもそも私にはお小遣いというものがなく、祭りの場合であっても、親がご機嫌なときに親が良しとしなければお金は出してもらえなかったのです。

 

 屋台にあるものを一通り見ては、「これは割高だし、いらんな」「家で食べたほうが安くておいしいやろ」と合理化をし、「そもそも食べたくないし平気平気」と考えるように努めていた記憶があります。

 さすがに社会経験として(?)、一回ぐらいはリンゴ飴などを買ってもらった記憶がありますし、食べ歩きの経験がゼロではないのですが、そもそも何が欲しいとか言い出すことすら遠慮せざるをえなく、貧乏という運命を呪ったものでした。

 

 
 あと、煌びやかな浴衣にはあこがれを持っていましたが、小学生のときには半ズボン1枚とTシャツ数枚(しかもいとこからのおさがりあり)ぐらいしか服のストックがない時代もあり、そもそも浴衣が云々のレベルではない状態でした。

 こんな状態なので、私のファッションセンスは磨かれることがなく、思春期の頃は友人とどこかに行くにしてもファッション面でのコンプレックスを抱え続けることになりました。

 


 思えば、小学校住んでいた同じ団地にいた人はまともな大学に行ってない率が高いですし、まともな人生送っていない率も高いです。高校行ったかも怪しかったり、高校を中退したりした人も勿論身近にいます。

 常々好きなものも買えない惨めな時代には戻りたくないとは思いますが、同級生の進路を見るとやはり貧乏は人を歪ませるところが大きいと思わざるを得ません。
 一応、大学はまともなところに行った私や弟なんかも、明らかに社会に恨み・憎しみを抱いていますし、やはり貧乏によって歪んだところが小さくありません(弟はそれ以外の要素の方が大きそうですが。)。

 

 「社会人やってる今の方が比べ物にならないぐらい幸せ」と言うような境遇に子どもをおいてはいけないと強く社会に訴えかけたいところです。それだけ精神的負荷の大きい環境に子どもをおいてはならない。

 

 果たして私はヒトラーのような人類の敵扱いされる人間と、杉原千畝のような救世主のような人間のどちらになって、そういうことを社会に訴えかけるのだろうか。いやいやそこまで両極端になるなよという話なんですが。