「4位じゃ死にたくなる」は至極妥当な感想
女子団体が銅メダルを獲得し、男子団体も決勝進出、そして水谷選手が個人銅メダルに輝き躍進の著しい日本の卓球界ですが、躍進の中心人物である水谷選手の発言が少し話題になりました。
テレビ局によっては自主規制に引っかかるため発言の一部をカットしたところもあるようですが、3位決定戦で負けたら死にたくなるのも当然だよなあという話をしたいと思います。
1.メダルを取るかとらないかでは社会の反応が違いすぎる
色はさておき、メダルを取れば家族、先輩後輩、周囲の人々はもちろん、郷土の人々・国民全体が大喜びします。
マスコミはメダリストを大きく取り上げますし、テレビ出演も増え、引退後も解説などでテレビに出続けられます。
多くの人を感動させ、喜ばすことができ、色んな人から感謝され称賛され尊敬されるのです。少なくないお金も当然入ってきます。
それに対してメダルが取れなかったとなると、あまりに多くの人から残念がられますし、申し訳ない気持ちでいっぱいになるでしょう。
マスコミもメダリストとは違う扱いをしてきますし、メダルを獲得した人と自分を比べるととんでもなく惨めな気持ちになるのは想像に難くないでしょう。
それこそ東大・京大とそれ以外との差どころでないほど扱いが違います。
2.自己満足ができるかできないかの違いが大きすぎる
周りの反応がどうかも大きなことですが、自分自身が納得できるか満足できるかが特に大きいでしょう。
優勝はできずとも何とか銅メダルを取ったのであれば、「少しは報われた」ですとか「悪くない結果は出せた」となりますが、銅メダルを逃してしまうと自分を許せなくなると思います。
死ぬほど練習を積んできて人生を賭けてきたものに、それ相応の結果が出ないまま終わってしまうのはあまりに無念です。
それこそ死ぬ前に「あのときメダルを取れて本当良かった。わしは幸せ者じゃ」と言いながら死ぬのか、「あのときメダルを取れていれば…残念無念」と言いながら死ぬのでは大きな違いでしょう。後者はあまりに浮かばれません。
似たようなことに甲子園出場がありますが、惜しくも甲子園に出られなかった選手はプロで一流になっても「悔しかった」と口をそろえて言っています。苦しさや悔しさの余り過去を思い出しくなくない人も少なくなさそうです。
中でも元日本ハムの木佐貫氏(県大会優勝で杉内投手のいる鹿児島実業に敗退)は「あのとき優勝していれば仲間たちの野球人生も大きく変えられたのに」と15年間も責任を背負い続けていたことを告白しています。
後の人生で大成功してもこうなのですから、望んでいた結果を出せたか出せなかったは極めて大きな違いでしょう。
3.チャンスはあまりに限られている
五輪であればリベンジも図れないわけではないですが、五輪は4年に1度しかありません。いくら超一流選手でも五輪に出られるチャンスは数が限られています。
ましてやメダルを取れるチャンスなどなかなかありません。勝負は時の運と言いますから世界ランクでは格下相手の選手に負けることもありますし、そのときのランク次第では強豪選手とすぐに当たってしまうこともあるでしょう。順当に準決勝まで上がるだけでもとんでもなく難しいのです。
いくら凄い選手でも一生にそう何度もメダルのチャンスがあるわけではないので(競泳のマイケルフェスプス選手みたいな狂った例外はいますが)、チャンスをものにできたか否かはあまりに大きな差なのです。
一生のうちメダルをもって凱旋できるか、メダルなしで終わってしまうかの違いが出てくるのです。
4.4位じゃダメなんです
銅メダルを取ることは、国の代表としてかかる重圧を押しのけて、国民の期待に応え国民を喜ばせ、少年少女をはじめその競技に関わる人達の希望を叶えることなのです。
かつて、2位じゃダメですかと誰かが言いましたが、3位までならまだいいのです。
3位と4位にこそ比べ物にならないほどの大きな溝があるのです。
4位でも世界の4位なのでとんでもなく立派ですし、競技によっては4位でも大満足というものもありますが、死ぬ気でメダルを狙って人生を懸けてきたメダル候補にとってはあまりに悔しさの残る結果なのです。
そら悔しさのあまり死にたくなるのも当然です。
放送コード的には問題の発言でしょうが、納得しすぎるほどの発言ですし、それだけこの大会に懸けていた水谷選手の思いをダイレクトに伝えるためにもカットせず放送していいんじゃないかと個人的には思ったりします(無責任な立場だからいえることですけどね。)。