量をこなせば難関も突破できるという考えは危険
世の中には、「努力し続けていればやがて理解できるはず」、「練習し続けたらいずれできるようになる」みたいな風潮が様々な分野において根強くあります。
確かにある程度は事実であることも確かなのですが、そういう「量をこなせば難しいことでもできるはずだ」という考えにどっぷりつかるのは危険だと言う話をしたいと思います。
○多くの人は憶測でものを言っている
勉強でもスポーツでもそうですが、本当に何年間も必死で努力し続けることのできる人は少数です。
分かりやすい例として、大学受験でいえば、東大や京大に合格する人を合わせてもその学年の1%にも満たないわけです。阪大や一橋、東工大、一部の医学部などを含めていっても本気で勉強して難関を突破した人はほんのわずかにすぎません。
実際に量をこなして難関問題をできるようになり、上に挙げた難関を突破した人はせいぜい1.5%ぐらいの人にすぎず、私を含めた98.5%ぐらいの人は結局できていないのです。
1.5%の人については量をこなせばできるようになったわけですが、他の98.5%の人も量をこなせば難関を突破できたのでしょうか?
勿論、中にはそういう人もいるのでしょうが、残りの98.5%の人が本当に量をこなしてできるようになっていたのかは結局憶測で語るしかなく、本当に量をこなせばできたのかについて真実は闇の中なのです。
できていない大衆が勝手な憶測で「量をこなせばできるようになるものだ」と言い出すことが多いですが、実際に量をこなしてできたわけでもない、それどころか量をこなしてすらいない人の話にどれだけの信ぴょう性があるのでしょうか。
まだ私のような量をこなしても上手くいかなかった人の話の方が、実際にチャレンジをしている分、遥かに信ぴょう性がないでしょうか。
○できないことは、時間をかけてもなかなかできないという現実がある
野球などを見ていても、いつまで経っても一軍に定着できずじまいの選手と言うのは多くいますし、強豪校ではめちゃくちゃ練習しているのにレギュラーになれずベンチにも入れない選手がごろごろいることがわかります。
スポーツをまじめにやっていない人は「練習すればいずれできるようになる」と安易に考えがちですが、ある程度のレベルともなるとなかなか壁を突破できずにもがいている人が少なくないという現実があります。
受験の世界でも、かなりの労力をかけているのになかなか合格できない人は少なからずいるわけです。
司法試験なんて回数をこなせばこなすほど合格率がむしろ下がるため、論文を書けない人は結局できないままという傾向が強く出ています。量をこなしてもどうにかなっていない人が少なくないのです。
研究の世界でも、何年も必死にやってきたのにまるで成果が出ずに終わるというのは多々あることです。
世間では成功例しか取り上げず、上手くいかなかった人はひっそりと姿を消すため、傍から見れば量をこなせば上手くいくように見えるだけです(実際には、量をこなして成功した人しか「見えていない」だけ。)。
私も10年近く法律の学習をしましたし、一般的な司法試験合格者よりは学習量を積んでいますが、いまだに民訴なんてわからないことだらけですし、「量はこなしたが、難しいことはいつまで経ってもしっかりとは理解できないし、なかなかうまくいかないものだ」と痛感しています。
かつて「これ今は全く何もわからないし難しそうだけど、さすがに6年ぐらい勉強すればできるやろ」と思ったことが、結局多少しかできていないということがいくつもあります。もはや悔しさや惨めさや辛さが募りすぎて、「学問なり難し少年負い易しというのは、時代を超えて通用する人間の真理だなあ」と悟りの境地まで達するほどですが、さっぱりわからなかったこと・まるでできなかったことというのは、量をこなしてもなかなかできないものなのです。
勿論、中には何かのきっかけで上手くいくものもありますが、そのきっかけを見つけるまでに何年もかかることがままあるわけで、当然最後まで見つからない人も出てくるのは不思議でないでしょう。
こういう「できるものはできるが、できないものはいつまでたってもなかなかできないという辛い真実が世の中には結構あるのではないでしょうか。
できる人にとってはぱっとできてしまうことについては、「自分も量をこなせばいける」と思いがちですが、それが通用しない悲しい現実がよくあるように感じます。
○上手くいった人の話も、その人の中ではそうだっただけの可能性大
結果的に難関を突破した人たちの話というのも、結局はその人が量をこなせば何とかなっただけの話である可能性が十分にあります。
突破できていない98.5%のうちどれだけの人に同じことが当てはまるのかは怪しいところです。
というのも、自分にどれだけの適性・素質があるかは知力の高い人でも判断しがたいですし、優秀な人が周りにいると感覚が狂いますし、ビジネスのために「みんなもできる」的な話をしたがる人が多いので、一般人にとって彼らの言うことにどれだけの合理性があるのはか定かでないのです。
私も周りに京大に行っていたり、司法試験にストレートで合格したりした人が少なからずいますが、だいたいそういう人は元々記憶力や集中力が優れていて、素晴らしい教育環境も整っていました。
そこにさらに量が加わったからこそ上手くいったというのが真相で、元々の素地があったというのがとんでもなく重要な要素だったように思えます。
だいたい難関ともなると、他に真剣に人生を賭けて挑んでくる人が少なからずいるわけです。
相対評価となればそういう人たちとの競争しないといけないわけですが、相手が相手なので量をこなすだけで簡単になんとかなるほど甘い勝負ではなくなるでしょう。
自分が必死に頑張っていても、競争相手も頑張っているわけで、さらに相手の方が素質も環境にも恵まれていればなかなか太刀打ちできません。それでも、枠は決まっているわけですから、そういう人たちとも太刀打ちしなければいけないのです。
「量をこなせばなんとかなった」という人は、量以外の点に恵まれていて、あとは量さえこなせばよいという段階にあったからこそ、そういっているだけの可能性があります。
なので、量以外の点でもいろいろ問題あるだろう普通の人が真に受けてはいけないのです。
○できない原因を見誤る
「量をこなせばできる」という考えが強すぎると、自分や他人ができない原因をすぐ努力不足だと認識してしまいます。
しかし、実際には、上手くいかない理由は多々あるわけですし、元々適性が全くなかったり、素質にかけていたり、アプローチ方法に問題があったり、適切な指導にありつけていなかったりと人によってどこに問題があるかは様々です。
真の問題点に気づけないままだと、結局問題は解決しませんし、弱点は克服できないままなので最終的に上手くいかないということになりがちです。
原因を見誤り、本来ならばできたことができずじまいに終わらないためにも、「量をこなせばできる。大事なのは量をこなすこと」という先入観に捉われないことが大事です。
○引き際を見失う
残念ながら人には適性や素質というものがあるため、いくら課題の量をこなしてもできるようになるとは限りません。
私がアイドルとして活躍するのは到底無理なように、「量をこなしても、これは上手くいかないな」ということがあるのはやむを得ないことです。
ですがそこで「量をこなせば、いずれできるんだ!」という思想に捉われてしまうと、頑張ってもできないことに挑戦し続け多くの時間と労力と費用を失い、辛い思いをするだけになってしまうおそれが高まります。
人生は有限ですし、取り返しのつかない事態になってしまうおそれも十分にあります。
ある程度頑張ってみてそれでもにっちもさっちも行かない状況のままであれば、冷静に考えて量をこなしていっても上手くいかない可能性は高いですし、引き際を考えるのが無難であって、合理的でしょう。
○自分や他人を呪い続ける
「量さえこなせばうまくいく」という発想に捉われた結果、「上手くいかないのは全て頑張りが足りないから」という暴論を吐く人が世の中には少なくありません。
実際には、上手くいかない理由・要因は色々あるはずであり、量の問題じゃないだろというケースも多いのでしょうが、そんな事実は努力至上主義という一種のカルトにはまってしまった人には関係がないのです。
そういう人は、実際にはそうでない可能性も高いのに、「努力が足りなかった自分(や他人)が悪い」、「努力が足りていないから上手くいかない」と、自分や他人を攻撃し続けます。
ただでさえ、必死に頑張ってきたのに結果が出せず悔しい思いをしている人にとって、それらの言葉はただの呪いでしかなく、その人を不幸にすることしかないでしょう。
自分や他人を傷つけてもドMの人以外は得しませんし、「量をこなせば難関も突破できる」という考えにどっぷりハマって、結果的に呪術者になることは絶対に避けるべきではないでしょうか。