語られない闇を語る

司法試験、大学受験、労働問題、社会問題などを中心に、あまり語られていない・語りつくされていない闇について語っていこうと思います。苦難と失敗から得た知見を曝け出していく予定です。

やらない後悔よりやる後悔←そもそも後悔するのが間違いではないか?

 世の中には「やらない後悔よりやる後悔」という人が少なからずいますが、冷静になって「そんなことないやろ」と思っている人も少なくないと思います。

 私としては、そもそもやろうがやるまいが、後悔する時点で間違いじゃないかと思っているので、その話をしたいと思います。

 

 

○やる後悔もダメージは大きい

 やる後悔だろうがやらない後悔だろうが、結局後悔すればそれだけ精神にかかる負荷も大きいですし、ダメージがあります。

 

 むしろやる後悔の方が、物事にそれだけ労力や時間、お金をかけていることが多いと思われるため、失われた利益はさらに大きくなりがちです。やらない後悔であれば労力や時間は失われないので、まだダメージは小さいかもしれません。

 それに、「これだけやったのにダメなのか…」と辛い思いも増しますし、まだ「あれをやっとけばよかった」と夢を見ていたほうが幸せなことも少なくないでしょう。

 

 結局、やる後悔はやらない後悔と同じかそれ以上にダメージの大きい行為でしょうし、後悔する時点で既にダメな状態になっているのです。

 

 

○後悔したところであまり意味はない

 それにいくら後悔しようと、過去を変えることはできませんし、昔の選択を悔やんだところで辛いを思いが増すだけです。

 「他のことをやっておけばよかった」と思っても、すでにやってしまったことは変えられませんし、後悔によってマイナスの感情を大きくしても仕方がないでしょう。

 

 ありきたりのことではありますが、過去は反省だけしておいて、今と将来どうするかを考えるしかないのです。

 

 

○その当時としては合理的な選択で、上手くいかなかったのは結果論かもしれない

 よくない結果が出ると、人はどうしても「ああすればよかった」と色んなことを考えるものですが、それは所詮結果が出たからこそ言える話です。

 選択をし判断をした当時の段階においては、様々なことを考慮して末に合理的な選択をしていた可能性があります。

 特に人生の岐路での重要な判断ともなると、じっくり物事を考えるのが普通ですし、いろんな人の話を聞くはずなので、かなり合理性がある判断をしているのが通常です。

 

 結果が出なかったとしても、それはたまたま運が悪かったり、後に自分には合わないことが発覚したりしただけの可能性は割と高いでしょうし、当時のその段階では正解を導いていたり、最善の選択をしていたりしていた以上過去の選択を悔んでも仕方がないのではないでしょうか。引いた運が悪かったのも、予測に失敗するのも、結局は運が悪かっただけの話です。

 神の目で見ない限りは未来の予測ができなかったわけですから、どうしようもないことですし、自分に落ち度があるわけではないのです。落ち度のない自分の選択にとやかく言うことに何の意味があるのでしょうか。

 

 合理的な選択をしたのに、ただの結果論を根拠に後悔するのはあまり賢そうではないですし、辞めたほうが無難だと思います。

 

 

○ほかのことをしたところで結果が出たかはわからない

 Aという選択をし、Bの選択肢を捨てた場合、私たちはつい「Aで失敗したけど、Bを選んでおけば上手くいったかもしれない」、「Aでもそこそこだったけど、Bならもっとよかったかもしれない」などと選ばなかった選択肢の可能性を妄想するものです。

 しかし、実際には、その当時において合理的と思われる選択肢がAだった上、Bはもっと成功確率が低く、成功して得られる利益の期待値も低かったのではないでしょうか。妄想ではいくらでも調子のよいことを言えますが、実際本当にそちらを選んでいてうまくいったのかという話です。

 

 例えば、理系を選んでよい大学に行けなかったという人も、純粋に勉強していないのであれば文系を選んでも失敗している可能性は高いでしょう。

 公務員試験ではなく民間企業を中心に就活をしとけばよかったという人も、公務員試験の緩い面接にすら落ちているコミュ力だったら、民間企業での就活も上手くいっていない可能性は高いのです。

 

 勿論、実はAは向いていなくて失敗したけど、Bを選んでいれば凄く適性があって成功したというパターンもありえますが、そのパターンに当てはまるかは怪しいところです。「あっちを選んどけばよかった」との後悔の内容にどれだけの合理性があるかは微妙だと思います。

 ドラクエではありませんが、「はい」「いいえ」のどっちを選んでいても、そんなに結果に差異が生じなかった可能性も十分にあるでしょう。「オッホッホ。わたしのことを覚えていますか」と聞かれたときに、どっちを答えてもどうせ戦う羽目になるのと同じことです。

 

 

○他の選択ができる状況だったのか

 人というのは、当時の具体的事情のことも忘れて後に「ああするべきだった」と考えるものですが、そもそも本当に「ああすることができた」のかも怪しいことがあります。

 

 例えば、「就活の苦しい文系ではなく、理系を選べばよかった」と後悔している人も、実際には当時物理・科学・数学が全くできていなくて、理系に進むなんて自殺行為に等しいような状況だった可能性もありますし、その人の資質や適性からすると他の選択を選ぶ余地がなかったのではないかと思われることもあるわけです。

 それに、当時の体調や健康状態、時間的余裕からすると、「○○をしよう」と思っても、それをすることができないような状況だった可能性もあります。転職活動をすればよかったと後悔している人も、本当に活動をするだけの力や時間があったのか、生活状況や家族への理解からして転職が可能だったのかと言うと疑問符がつくことも少なくないでしょう。

 

 要するに、実際には(無意識ではあるが)やむを得ず選択をしていて、他の選択をすることが極めて困難ないし不可能だったパターンもあるわけで、本当に他のことをすることのできる状況だったかは考え直すべきだと思います。

 

 

 恥の多い人生を送ってきた私ですが、当時としては合理的な選択・判断をしていることが多いですし、考えれば考えるほど「過去の自分、何も間違ってないやん!」と思うことが多いです。ただ素質がなく、ただ不幸なだけで、選択に問題があるわけではないパターンが多いです。自分に素質がないと認めるのは辛いことですが、他の方も似たようなことが多いのではないでしょうか。

 

 自分なりに頑張ったのに満足いかない人生を送っている人なんかは、どうしても「○○をしなければよかった」といった後悔をしがちですが、あまり後悔しても仕方がなく、選択や判断過程には問題がないことも多いと思うので、そもそも後悔をしないのが良いのではないかと思います。