若く美しい女性は花にたとえられるが、自分はその花ではないという事実【閲覧注意】
※容姿に強いコンプレックスのある女性や、GIDの方は傷がえぐられるおそれがあるので注意してください。
日本では昔から、美しい女性を花に例えて表現することが多いです。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉に代表されるように、美しい女性は、同じく美しく綺麗な存在である花のように丁重に扱われ、価値のあるものとして認識されます。
しかし、ほとんどの男性や美しくない女性は花ではありません。
また、美しさを失ってしまった女性はもはや枯れた花扱いです。
ただそこにいて普通に振る舞うだけで、人を喜ばせ、自分の存在意義を実感することができ、自分を尊いものと思うことのできる美しく綺麗な花ではないのです。
美しく綺麗な花ではない存在は、ただ存在しているだけでは無価値です。いやそれどころか下手すると有害なものとして扱われます(イケていないおじさんを見てみましょう)。
そのため、何をするか、何をできるかが大事であり、必死に何をできるかという点を追及しなければ、自分の存在意義を確かめられません。他人から価値を認められないだけではなく、何より自分自身を価値ある大事なものと認めることができません。
そして、必死に自分の能力を磨き成功をつかんだとしても、よほどの成功でない限り、ようやく美しく綺麗な花と同じ土台に立てるだけです。
5年かかるか10年かかるかわかりませんが、そこまでしてようやく同じだけの価値を手に入れることができるのです。
私も自分自身が美しく綺麗な花でありたいと強く望んでいましたが、残念ながらその花ではありませんでした。私がいくら努力を重ねようと、見た目はせいぜい禍々しくおぞましい花のような何かが限界なのです。ちょっとかわいい花程度でも十分すぎるぐらい満足なんですけどね。
せめて美しく綺麗な花と同じだけの価値をもちたい、内面だけは美しく綺麗な花でありたいと願い、人生の半分以上の期間かなり無理して頑張ってきました。
その結果途中でうつ病になりましたし、就職に失敗したり、ハローワークに通った末ブラック企業に入社したりと酷い目に遭いましたが、それでも世間では評価のそこそこ高い大学には行きましたし、結局は社会的評価の高い職に就けることとなりました。
また、内面は闇がとてつもなく深いのですが、周囲からは聖人扱いやいい人扱いされることも少なくありません(人というのはあまりに見る目がなさすぎる)。
もしかしたら、傍から見ると美しく綺麗な花と同じぐらいの価値を持ち始めているのかもしれません。
しかし、自分自身はと言うと、自分に素晴らしい価値があるとは到底思えませんし、自尊心はまるで持てません。
「結局他人が評価し、自分を評価できるのは美人じゃないか」、「これだけ頑張ってようやく対等とかふざけるな」などとよく思いますし、この世界の理不尽さには心底嫌気がさします。
私にはどうも、「見た目が残念だろうと、男は金を稼いで綺麗なねえちゃんを捕まえればいい」的な価値観とはとても相いれないようです(何故、恵まれた者に恵まれないこちらが施しを与えないといけないんだとしか思えません。)。
自分のやることや行動・思考に価値があるだけで、何もないフラットな自分は無価値どころか有害なんだと思えてしまいます。
結局、美しく綺麗な花でありたいと願う者が、ちょっとかわいい花にすらなれず禍々しい花のような何かになれるのいいところだとだと、どう頑張っても自分自身を価値あるものとして認めることはできないのだと思います。
他のことで自分の価値を高めようと心底努力したところで、コンプレックスは多少マシになるだけですし、苦しみは消えません。おそらく一生残り続けるでしょう。
槇原氏のように誰もが世界に一つだけの花だと考えられればよいのでしょうが、あまりに苦しみを背負いすぎてこじらせてしまったのか、どうもそういう優しい世界観は受け入れられませんね。
「良き相手が見つかったら変わる」、「家庭を持てば変わる」ということも苦しみがまだ浅い人にしか期待できないでしょうし、私には到底当てはまらないと思います。というかその前提が満たされることはまずない気がします。
それにしても、日曜の朝から私はなんて重たいテーマを語っているんだろう。