なんでも自己責任にするくせに、何故震災については自己責任と言われにくいのか
私は今の日本にはびこる自己責任論自体が合理性の低い理論だと思っていますが、特に不思議だな、理解できないな、一貫しないなと思うのが、タイトルで挙げたことです。
テロリストに拘束されて死んでも、格安バスツアーを選んで死んでも自己責任と言われる意味不明な社会なのに、震災に関してはあまり自己責任という話は出てこないのではないでしょうか?
勿論、中には言っている人もいるのでしょうが、明らかに数は少ないと思います。
この荒んだ今の日本社会であれば、ボロい家を改築せずに暮らしていたのがアンタが悪い(建物の下敷きになって死んだ人に対して)、震災に備えて適切な避難場所を自ら準備していなかった自己責任だ(震災関連死の人に対して)との論調が多くなってもおかしくはないはずなのですが、どうもこういうことを言っている人は少ない印象です。
その理由はなぜかという話ですが、「天災はどうしようもない」、「こんなどうしようもない不運は分かち合うの合理的だ」というのがさすがに頭のよくない人でもわかっているからではないでしょうか。
あと、日本ではほとんどの地域で同じように大震災に見舞われるリスクがありますし、他人事ではない、明日は我が身かもしれないと思い、自己責任で済ましてはいけない問題だとさすがに理解できるからでしょう。
しかし、震災以外でもそれは同じことではないでしょうか。
例えば、病気はどうしようもない。備えが全くできないわけではないが、震災と同様防ぎようがないことも多い。
震災と同じく常に準備しとくべきではあるが、予見可能なことばかりではない。
統合失調症とかがそうですが、だれがいつ人生が狂うような病気になるかわからない。不運にも病気で人生が狂ってしまった人を見殺しにするより、不運があってもみんなで支えて生きていける世界にしたほうが、もしものことがあっても安心できる。一つ間違えたら終わり、一つの不運で人生崩壊の世界より、一つダメになっても生きていける社会の方が安心して暮らせるはずだ。
それなのに、なぜか、震災以外だとそのことを理解できなかったり、忘れてしまったりする人が少なからずいる。
天災と不意の病気と何が違うのだろうか。病気や事故なんかもどうしようもないところがあるのではないか。私としてはそう思わずにはいられません。震災について自己責任で切り捨てないのであれば、病気や事故なんかも自己責任で切り捨てるなよと思います。
あと、震災で自己責任と言われにくい理由としては、震災で亡くなった人を糾弾すれば、熊本の人たちから総攻撃を受けるのは必至だからというのもありそうですね。
バスツアーで死んだ人を糾弾しても、遺族は限られた数しかいないですし、攻撃を喰らう恐れは少ないです。しかし、震災については被災者が非常に多いため、総スカンを食らいます。
言いたい放題ができない環境にあるから、自己責任と言って悦に浸れないというのが大きいのではないでしょうか。
弱い者いじめのための理論として自己責任論が使われているからこそ、いじめることのできない被災者に対しては自己責任論を使わない。
たったそれだけのくだらない理由なのではないでしょうか?
被災者以外に対しても、安易に自己責任、自己責任というなよという話ですね。
自己責任論については、ツッコミどころばかりありますが、とりあえず今日はこの辺で。
自己責任論が発生しやすいメカニズムについては↓で検討していますので、よかったらこちらも読んでください。