過半数の賛成で物事を決めるのは乱暴すぎないか 多数決も濫用してはならない
現代社会では、色々なことが過半数の賛成をもって決められます。
衆議院での再可決という例外を除けば法律の制定もそうですし、裁判員裁判絡みで例外はあるものの裁判もそうです。
国の趨勢を決めるような事態や、その人の人生を大きく変えてしまうような判断であっても過半数の賛成で物事が決まってしまっています。
しかし、冷静に考えると、過半数の賛成で物事を決める。特に重要な事項について決定を行うというのは、かなり乱暴で問題もあるのではないでしょうか。
そこで、多数決(過半数の賛成)を濫用するのはまずいのではないかと言う話をしたいと思います。
○最大で約半分も反対がいる、あまりに反対が多すぎるのに意見が反映されない
多数決が採用されますと、最大で約半数近くの反対者がいても、物事が決まってしまいます。
一度その物事が決まったら、反対者としてはどうすることもできないことがままありますし、約半分の人がいるにもかかわらず反対者の意見はまるで聞かれないこともままあります。
冷静に考えて、約半分もの人の意見がないがしろにされるおそれがあるというのは、かなりの暴挙ではないでしょうか。
日常生活でのどうでもいい出来事であれば、「もう少し話を詰めてから反対者を減らした上で物事を決めよう」と思うのが通常ですし、そうしないと不満たらたらの人が多くて物事が上手く進められないおそれが強いでしょう。
どうでもいい出来事以外でも、もっと反対者の意見を考慮し、もう一度議論してその後投票をやり直したりする方が良いのではないでしょうか。
○半分も反対するのはとんでもない状況である可能性がある
それに、表だって誰かに反対するというのは勇気のいることです。
可決されてもさほど問題ないことであれば、安易に賛成に入れる人が多いでしょう。
実際、普段の生活でも「どこに食べに行きたい」か聞いて大半の人が反対するような事態はあまり起きないでしょう。
それに、ニコ生のアンケートなどでもよほどのことがない限りリスナーは甘々の判定を下すので、「とてもよかった」が9割ほどになったりするものです。
そういう状況があるのに約半数もの反対があるというのは、それはもうかなり反対の意見が強いものだと思われます。
どこに食べに行きたいか聞いて約半数の人が反対するということは、よほどひどいチョイスやセンスのない提案をしている可能性が高いですし、ニコ生で「とてもよかった」が5割ほどしかないということは、よほどひどい事態で炎上レベルなのです。5割超「とてもよかった」があっても、実際には全くよくないのです。
「とりあえず適当に賛成したのが51%、何が何でもこれはまずいと思って断固とした意志で反対したのが49%」というのが実態である可能性がありますし、本当に可決してしまってよいのかと疑問符が付く状況があるのではないでしょうか。
過半数が賛成していても、実際には問題だらけで可決するのはまずいという状況もあるということを頭に入れておかないとまずいでしょう。数値だけを見ていてはいけないのです。
○きまぐれや偶然で結果は変わる
賛成と反対の数が拮抗している場合、わずかな差で過半数の賛成が得られることがあります。
この場合、私立大学受験でもう一度試験をやり直したら半数合格者が入れ替わる理論と同様、僅かな差しかないのであればまた投票をしたら結果が変わる可能性も十分にあるでしょう。
というのも、賛成か反対か決めかねている人が、周りに賛成者が多くて賛成意見をよく耳にしていたから賛成したとか、反対者に頭がおかしい人がいるのを見たとかいったふとしたきっかけで賛成に投票することもあるからです。
きまぐれや偶然で誰がどちらに投票するかは割と変わるため、わずかな差程度であれば逆転もありえます。
それなのに、過半数の賛成があったとして、とんでもない権力を握れることになるのは問題があるのではないでしょうか。
たまたま過半数を取れただけの可能性もあるのに、その事実は一切考慮されることなく、過半数の賛成があったという事実ばかりが強調されてよいのでしょうか。
○過半数程度では、合理性が怪しい場合もある
人の知能はたかが知れているため、高度な判断を下す能力には限界があります。
人類史上を見ていても、昨今のフィリピンや米国を見ていてもそうですが、ポピュリズムにすぐ人類は流されますし、その結果非合理な行動をとりがちです。
そんな大げさな話をするまでもなく、人はまともに考えずに気分や好き嫌いで物事を決めることも多く、合理的でない決定をしがちです。
それなのに、51%の愚者がいれば、過半数の賛成が取れてしまい重大な決定権をもててしまうというのは非常に危険なことです。
51%ぐらいなら愚者が生まれてしまうことは大いにあり得ることですし、過半数の賛成があったとしても合理的な判断ではない可能性も十分にあるのです。
突き詰めていうと、過半数でなく特別多数でも衆愚政治に陥るおそれはあるわけですが、それでも過半数で決めてしまうシステムに比べると、非合理な決定をするリスクはマシになるでしょう。
過半数ではさすがにリスクが高すぎではないでしょうか。
○まとめ
以上のことをまとめると、
・約半数もの意見が反映されないのはまずい
・そもそも約半分も反対があるのはかなり問題がある可能性がある
・たまたま過半数がとれてしまっただけかもしれない
・過半数の賛成者は愚者かもしれない
と言う問題があるわけです。
ただ、多くの反対があってもどっちかに決めなければいけないことが世の中には多いですし、過半数の賛成で物事を決めることになるのはやむを得ないことなのでしょう。
○過半数の賛成で決めるシステムの問題点を減らすべき
しかし、仕方がないと言っても、やはり問題点を無視するわけにはいきません。
急務の事項でなければ特別多数を取るまで投票やり直しにすることも考えられますし、できる限り3分の2や4分の3を超える賛成を必要とし、それが取れなければもう一度議論をじっくりしてみるようにすることが必要ではないでしょうか。
反対者がかなり少ないということは、それだけその組織に属する人にとって満足いきやすい結論であり、ひいては組織にとってより良い結論である可能性が高そうですし、反対者をできるだけ減らせるよう話を詰めていくべきではないでしょうか。
それに、物事を過半数で決めるしかないにしても、多くの反対があったという事実を意識して、反対意見を考慮し反映するべきです。
そうすることで、反対者としても一定の譲歩は引き出せたとして多少の満足のいくマシな結果となり、より多くの人が満足いく結果になる可能性があります。最大多数の最大幸福に資する結果となるかもしれないわけです。
震災支援が偽善に見える理由 人はわかりやすい不幸しか助けようとしない
熊本地震からもうすぐで半年が経ちますが、近年では震災支援をしたり黙とうをしたりする人に対し「売名」、「偽善者」と謎の叩きが頻発する状況となっています。
「良いことをしているのにバッシングは酷い」と思う方が大半だと思いますが、本音を言うと「確かに偽善っぽいな」と感じている方はそこそこいるのではないでしょうか。少なくても、私は偽善っぽさをどうしても感じてしまいます。
そこで、何故少なくない人が偽善っぽさを感じてしまうのか、何故私自身偽善っぽいと思ったのかについて個人的に思うことを書いてみたいと思います。
○被災者はわかりやすい不幸状態
「地震によって、家を失った・家族が亡くなった」というのは、誰がみても一目でわかる不幸な状態です。そこまで行かなくても「住む場所がない・物資不足に困っている」という状況があるわけで、これほどわかりやすい不幸もなかなかないでしょう。
被災者は明らかに苦しい思いをしていて、支援を必要としていますし、誰からも「運悪く、助けが必要な状況に陥った可哀相な人」だと認識されます。
震災報道も多く、被災者支援は特に注目を集めますし、震災支援をすればそれだけ世間からの良い評価を受けやすい状態にあるといえるでしょう。
○同じく不幸状態にある人たちが大勢いるのに、その人たちには支援しようとすらしない
しかし、よく考えると、被災者以外にも「運悪く、助けが必要な状況に陥った可哀相な人」というのは現在の日本には数多く存在します。
過労やパワハラから鬱病を発症して仕事を辞めざるを得なくなった人、リストラに遭って生活苦にあえいでいる人、いじめや虐待を受けて将来を悲観している子ども、母子家庭で食べるものにも困っている人、事故や障害のせいで思い通りに生活できない人など支援が必要な人は少なくありません。
そういう「わかりにくい不幸」にある人たちも被災者と同様苦しい状況にあるというのに、支援は何故か被災者にばかり行くものです。
震災支援をする人の一体どれだけが、そういうわかりにくい不幸にある人たちの支援をしているのでしょうか?おそらくほとんどしていないと思います。
そういう支援の偏りを見ると、私としてはどうしても「本当に人を救いたいと思うのなら、被災者以外も支援すべきじゃないか」、「普段から人を支援すべきじゃないか」とつっこみたくなります。
さらに穿った見方をすると、震災被害に遭った人を支援すれば評価をもらえるけど、それ以外の人を支援してもそんなに評価されないから・イメージアップを図れないから、被災者だけを支援しているんじゃないかと思えてくるのです。
○わかりやすい不幸もわかりにくい不幸も本質に大差はないはず
・苦しんでいることに変わりない
被災者と、それ以外のわかりにく不幸に苦しんでいる人たちというのは、いずれも苦しんでいることに変わりはありません。
むしろ同情されず、偏見を受け、公的支援も少ない分、わかりにくい不幸の人たちの方が苦しみは大きいでしょう。ホームレスの人なんかを見ると一目瞭然です。同じ家がない人でも「社会のゴミ。早く○ね」と言わんばかりの反応ですからね。実際には、病気や障害で働けない可哀相な人であるかもしれなくても、そういう可能性を微塵も感じていないのです。
そう考えると、むしろより支援するべきはわかりにくい不幸状況にある人の方だと、私は思うのです。
・ともに自己責任では片づけられない
世の中には、「被災者は天災という不運に見舞われて不幸になったから救うべきだけど、それ以外の人が不幸になったのは自己責任だから救う必要がない」という方もいるでしょう。
しかし、わかりにくい不幸にある人たちの苦しんでいる理由をみると、自己責任であるとはとても言い難いケースも少なくありません。
事故や病気、障害なんて自分の努力では避けようがないことが多いですし、転職が難しい上働いていないと落伍者扱いされる日本社会では、病気のリスクを抱えてでも無理して働くのがやむを得ないでしょう。
いくら会社自体がホワイトでもたまたま上司がサイコパスの場合もありますし、親がろくでもなければ子どもに逃げ場はないわけです。
いつどの地域に産まれるか、どの家庭で生まれるか、どういう障害をもって生まれるかなんかは特にそうですが、この世界には自分の力ではどうしようもないことがあまりに多すぎるのです。性別も容姿も選べませんし、人生がゲームだったら「キャラメイクもできない、運要素が大きすぎるクソゲー」と言われることでしょう。
理不尽なことがあまりに多すぎる社会ですし、どうにもできないところで不幸な目に遭うことが圧倒的に多く、自己責任で済ませられる範疇を優に超えていることがほとんどではないでしょうか。
それに、わかりにくい不幸にある人が苦しんでいるのが自己責任というのなら、震災で苦しんでいる人たちも自己責任でしょう。
地震大国の日本では多かれ少なかれ、早かれ遅かれ震災が起こるのは予見できるわけですし、その備えをしない自己責任と言えるはずです。
地震保険に入っていなかったのが悪い、地震の頻発する地域で暮らすのが悪い、地震があっても生活できるように自助努力すべきだったのにそれが足りなかったと言い始めたらキリがないでしょう。
こう考えていくと、わかりにくい不幸にある人たちのどこが震災で苦しんでいる人たちと違うのかわからなくなってきます。
おそらく、本質はほとんど変わらないのではないでしょうか。
○結局、どこが原因なのか
他にも原因はあるのでしょうが、「苦しんでいる人たちの中でも、あえて被災者だけ救おうとするところに疑問を感じている」というのが、偽善っぽく感じる大きな原因だと私は感じています。
被災者が注目されている分、支援すれば高い社会的評価を簡単に受けられるから、イメージアップのパフォーマンスとしてわかりやすい不幸にある人だけを救おうとする。どうもそう疑わざるをえないのです。
○おわりに
実際には偽善の気持ちなど一切ない人も多いでしょうし、偽善でも被災者にとってはありがたいならまあいいじゃないかとも思えますが、本当に慈愛の心があるのであれば、普段から「わかりにく不幸」に苦しむ人も含めて苦しんでいる人に手を差し伸べてほしいと思います。
お金があるのにプロの指導を受けないのは悪手の可能性大だ。塾・予備校はできるだけ利用することをお勧めする
世の中には、「別に予備校行かなくても何とかなるでしょ」、「塾は勉強がまるでできない子が仕方なく行くべきところ」、「塾も予備校もいかなくても良い大学に行ける人もいるし、別に要らない」という風潮もいまだに残っています。
しかし、個人的には予備校や塾のおかげで劇的に成績を伸ばせましたし勉強以外で学べることが多かったですし、お金がある限り予備校や塾を是非とも活用すべきだと強く思うので、その理由について語りたいと思います。
○塾・予備校は受験のプロ
学校の先生は受験で必要な教科こそ教えてくれますが、あくまで指導要領に従ってとりあえず教育をする人であり、受験のプロというわけではありません。
教えてくれる量もあくまで最小限ですし、有名な大学・高校に合格するには物足りない指導量・指導内容しかありません。
それに対して、塾や予備校は、受験のために生活をかけて指導を行う機関であり、合格に必要な情報を大量にもっていますし、合格のためのノウハウ・指導方法をひたすら磨いています。
お金さえ出せば、徹底的に親身になって教えてくれますし、高度で複雑で細かい内容まで教えてもらえます。しかも、教える実力のない人は淘汰されるので、選りすぐりの実力が講師がわかりやすく教えてくれるのです。学校のように教える能力が乏しいと思われる人でもクビにならないのとは違うのです。
・合格のために必要な指導を磨いている
・指導量が多い
・複雑な内容まで教えてもらえる(独学は難しい内容も理解しやすい)
・しかもわかりやすい(理解までの時間を短くできる)
わけですから、塾や予備校を使わないというのはあまりにもったいないでしょう。
塾や予備校を利用しないのは、あまりに大きなディスアドバンテージだと思いませんか。
○高度すぎる内容はプロにしかなかなか教えられない
普通の学校では、正直そこまで勉強ができてなくても入学できる大学出身者も多いです。
さすがに簡単なことはちゃんと教えてくれるものの、難易度が上がると指導が怪しくなる人が少なくありません。公立トップ校では、生徒の方がその科目をよく理解しているという逆転現象が起こることもままあります。
しかし、塾や予備校では東大や京大を中心に有名大学出身者が多く、複雑で高度な問題までしっかり理解しそれを上手く教えるだけの頭脳を持った人が多く在籍しています。
受験について確固たる自信と能力を持った人が、生徒指導などで時間を奪われることなく、あの手この手を尽くしてわかりやすく指導することを考えて指導に当たれるわけですから、普通の学校ではできない高度な内容についてもしっかり指導が期待できるのです。
前回の記事で国語については語りましたが、「こればかりは相当の実力者でないと上手く教えられない」という複雑で高度な内容も、塾や予備校であれば教えてもらえる可能性が高いのです。
○受験で成功している人はだいたいプロを利用している
現在では、有名な大学に合格できる人のほとんどが、小中高のどこかで塾や予備校を利用しているものです。
特に有名大学進学者の多い中学受験経験者は、塾や予備校なしに有名中学に合格するのは不可能に近い性質上、ほぼ全員が塾・予備校の利用者でしょう。
中学受験非経験者でも、進学塾なしに超進学校や進学校(自称ではない)に行ける人はなかなかいませんし、私の周りを見てもほぼ皆無でした。
大学受験でもどこかしらの塾や予備校を利用する人が多く、全く利用しないという人はかなり少なめであり、利用しない人もだいたい有名私立校出身というパターン(中学以前では塾・予備校をどっぷり利用している)です。
一応、全く塾や予備校を使わなかったという人もいないわけではないでしょうが、今では絶滅危惧種レベルじゃないかと思うぐらい珍しい存在です。
というのも、各大学の入試問題のレベルやセンター試験のレベルは、塾・予備校による受験対策に対抗して年々上がっています(センターについて大幅改変があるので今後は不明)。英語なんて四半世紀前の二倍以上の分量になっていたりしますし、どさくさに紛れて古文なども長文化していたりします。
東大や京大の合格者の内訳を見ても有名私立校出身者が多いですし、昭和の頃とは違って、もはやお金をかけないとなかなか東大などの有名大学にはいけなくなっているのが実情なのです。
今の時代に塾も予備校も利用しないで上手くいった人というのは、おそらくとんでもなく記憶力や理解力が優れている人か、たまたま良き指導者が周りに大勢いた豪運な人でしょうし、とても真似してはいけません。
以前書いた記事でも書いていますが、受験では基本的にスタンダードな成功例を参考にするべきであって、とびぬけて素質がありそうな人の真似をするのはあまりに危険です。再現ができずに失敗する可能性が極めて高いですからね。
○結論
お金がないならどうしようもないですが、余裕があるなら進学塾を利用しない手はまずないと個人的には思います。
合格の可能性を上げられる可能性が高いですし、行ける大学・高校のレベルを1つ2つ上げられる可能性が上がりますからね。
スポーツでも優れた指導者の下で練習する人が活躍する傾向がありますし(高校野球で遠く離れた地に行ってでも指導者を追うパターンが多く、テニスも卓球も海外での英才教育が功を奏している)、結果を出してくれる指導者に出会うことは極めて大事だと思います。
良い結果を出そうと思ったら、学校の先生は近所にいる町のコーチぐらいの認識にとどめて、さらに有名な指導者の下に飛び込んでいくことが大事ではないでしょうか。
勿論、町のコーチにも凄い人はいるでしょうし、その人たちの指導が役に立たないわけではありませんが、さらなるステップアップを図りたい場合には不十分だと思います。
○おまけに言うと
今回は指導の面に着目して塾や予備校に行くべきと言う話をしてきましたが、指導と同じかそれ以上に良きライバルと切磋琢磨する環境が整うというのも良いところです。
やはり、自分ひとりでただ頑張るのは精神的に難しいですし、周りと一緒に頑張って、凄い同級生に引っ張ってもらうことはとんでもなく重要だと思います。周りに負けたくないというモチベももてますしね。
あと、一人では無理なことでも他の人と一緒だと謎のノリで乗り切れることも珍しくないものなのです。
それに、塾や予備校では、静かで勉強に集中できる環境が整っていることが多く、自習がしやすいのが素晴らしいところです。
私のように家庭が崩壊していて親兄弟がやかまして仕方がない、度々修羅場に巻き込まれるような人でも、塾や予備校さえあれば落ち着いて勉強ができるのです。1年で360日ぐらい予備校で夜遅くまで過ごし、できるだけ親と顔をあわせないようにしていたほどアレな環境だったとは、とても他人には言えない。
国語が苦手科目の人は多いが、そもそもどういう科目なのかの認識から間違えられている気がする
人によって苦手科目は違うものですが、学生時代に国語で苦しめられた人は特に多いと思います。
「結局伸びずじまいだった」、「いまいち攻略法がわからないまま終わってしまった」という方も残念ながら少なくないでしょう。
また、中には現在進行形で成績が伸びずに苦しんでいたり、子どもが国語(現代文)で苦戦してどうしたものかと悩んでいたりする方もいらっしゃるかもしれません。
とにかく世の中には、国語に苦しめられる人が多く、中には二次試験での国語を回避するために進学先を変える人もいるわけですが、個人的にはそもそも国語と言う科目がどういうものなのかの認識からおかしいんじゃないかと思う人がすごく多いように感じます。
私には林修先生のような実績があるわけでもないので偉そうなことは言えませんが、「そんな風に捉えてたらなかなか伸びないよ」、「その認識ではなかんか当たるも八卦当たらぬも八卦状態から抜け出せないよ」とツッコみたくなることも結構あったので、そもそも「国語という科目はこういうものじゃないか」ということを語りたいと思います。
○国語(現代文)は、「日本語の試験」ではない
小学校ぐらいのときであれば、国語と言うと日本語さえできていればだいたいできてしまうものです。
しっかり漢字を覚える、言葉の意味を理解していけばだいたいの問題は解けます(難関中学の入試は別なので注意。)。
しかし、だんだん出てくる文章が複雑で難解になり、問いにもしっかりとした文章でこたえなければならなくなってくるとそうもいきません。
(進学校の)高校受験以上のレベルになると、色んな漢字を知っていること・色んな語句や慣用句などの意味を知っていること、背景知識がある程度あることは当然の前提として、いかに文章を正確に読み解き、解答するかが大事になってきます。
もはやその段階以上となると、ただ日本語を知っているだけではダメであり、いかに文章を早くかつ正確に読んでこたえられるかの科目になるのです。
言語こそ日本語が用いられますが、日本語の試験ではなく、日本語で書かれた文章をいかに読み解いて答えを出すかという試験になるのです。
○大事なのはいかに論理を迅速かつ正確に読み取れるか、論理を使いこなせるか
文章を正確に読むためには、まず言葉の意味をしっかり理解していないといけません。そのため、漢字や言葉をしっかり覚えることがまず大事になります。
あと、色んな知識や理解がなければ論説文を読んでもちんぷんかんぷんで時間が足らなくなりますので、様々な知識や理解を吸収しておくことも、あまり言われないことですが意外と無視できません。
ただ、何より大事になってくるのは、論理を迅速かつ正確に読み取ることです。
論理を適切に追うことができなければ、いくら語彙力や知識があっても読み違い・理解違いが起きてしまうわけでして、どう論理が進められているかに着目し、どのような文章構造で物事が語られているのか・どのような展開で話が進んでいるかを理解して、合理的に作者の主張や登場人物の心理を読み解く技術こそが大事になってくるのです。
小説問題でも、登場人物の気持ちを(勝手に妄想して)考えるのではなく、登場人物の具体的動作や客観的描写を捉えて、合理的な推論をして答えを出さないといけないのです。
なにせ問われているのは、感想ではなく、素早く的確に読み取りができてしっかり回答をする能力なのですから。
受験テクニックとして、「接続詞に着目しろ」、「3色ペンを使って、どこが主張なのかなど構造を意識してみよう」などと言われたことがある人が大半だと思いますが、そういうことを言われるのは、接続詞を見れば論理展開がわかりやすく、結局作者は何を伝えたかったのか・何を強く述べているのかが理解しやすくなるからです。
問題の難易度が上がっていくと、とにかく論理を読み取り、論理をもって回答をする能力こそが重要となるのです。
国語は、論理能力こそを問う科目といっても過言ではないのです。
○世の中の風潮には決して惑わされてはいけない
世の中には、論理性の重要性も意識しないで、「国語はセンスだ」、「こんなのフィーリングよ」、「登場人物の気持ちを想像しよう」みたいないい加減なことを言う人が非常に多いですが、そんな勉強不足の人の言うことを真に受けてはいけません。
だいたいそんなことを言う人の多くは国語があまりできなかった人たちなわけで、迷走し、困惑し、攻略法がわからずじまいのままの人が多いですからね。
そんな戯言には惑わされずに、しっかり、塾や予備校で論理の読み取り方を学び、実践を繰り返して、それを素早く正確にできるよう訓練することこそが大事なのです。
それをやれば当たるも八卦当たらぬも八卦状態から抜け出せるでしょう。センスが云々とかは、その段階にたどり着くまで正しい努力をしてから言えという話です。
○国語に関しては、予備校や塾を使うしかない
そうはいっても、どう学べばいいんだと思う方も多いでしょうが、残念ながら国語をしっかり教えられる人というのは本当に少ないです。
受験のプロであり東大卒などのエリート教師が集まる予備校界でも、特に国語の教師は高度なことをしているとして尊敬されるものなので、学校の先生で国語をしっかり教えられる人はあまりいないものと思ってよいでしょう。
国語というのはとにかく教えるのが非常に難しく、国語をしっかり教えることは極めて高度なことなので、まずプロにしか期待できないものと考えたほうが無難だと思います。そのため、国語に関しては、予備校や塾で優秀な講師と出会うよう試みるべきでしょう。
東進のステマではありませんが、出口氏みたいな偉大な教師に会えるか否かで本当に国語の出来は大きく変わります。
「お金がある限り、絶対国語は予備校を使え」、「国語こそ予備校に頼るべきだ」と声を大にして伝えたいと思います。
貧乏をこじらせすぎた結果、一周回って貴族の思考にたどり着き囚われてしまった話【閲覧注意】
※食事中の方や過食症の方は閲覧にご注意ください。
世間では、今でもNHKの貧困報道に対して数多くのバッシングがなされていますが、今日は私のとある昔話を交えて、貧困は本当悲しいという話をしたいと思います。
○小学生(主に低学年)のころの私の経済状況
思い出すと悲しくなるのですが、正直あまり好ましくない経済状況でした。
だいたい下のような状況があったのでお察しなのですが、少なくとも、JKうららよりは貧しい暮らしをしていたでしょう。
・両親が離婚する前提で話が進んでいたため、贅沢ができず着るものも満足に買えない
・ネットでは評判の悪い公団暮らし
・祖父の事業の関係から債務の取り立てに追われ、親の代わりに電話に出て「親はいません」と言う羽目になったりする
・漫画など当然買ってもらえない。ゲームを買ってもらえる奇跡が起きたときには(1年に1回程度)歓喜のあまり狂喜乱舞する
○バイキングで悲劇が起こる
上みたいな状況だったこともあり、当然、外食で高いものを食べられる機会はあまり
なく、定食屋に行っても親に気を遣ってできる限り安いものを頼むような状態が続いていました(とある芸人のチキンライスという歌がまるで他人事じゃない。)。
マクドナルドで当然のようにセットを頼んだり、レストランなどで水があるのに有料でジュースを頼むようなことは到底ありえない暮らしでした。
その中で、珍しくそれなりに良いものを好きなだけ食べられる機会に遭遇すると、人はいったいどうなると思うでしょうか?
あまりに貧乏をこじらせすぎた私は、「こんな千載一遇のチャンスを逃してたまるか」と言わんばかりに、高くおいしそうな料理を限界まで、いや限界を超えてまで食べるという暴挙に出てしまいました。
それも1回2回やらかすなら他の人も経験しているかもしれませんが、私はなんとバイキングというものに遭遇するたびに過食症レベルまで食べるという暴挙に出ていたのです。
というのも、子ども価格では千円ちょっとという別にさほど高くもない場合であっても、当時の私にとっては高額であり、「最大限に利益を回収しなければとならない」との謎の強迫観念に突き動かされてしまったのです。
発想に至る経緯こそまるで違いますが、皮肉にも古代ローマの貴族と同じように食べるために吐くという思考に至ってしまっていたのです。
さすがに毎度毎度そういうことを経験すると、人は懲りてきますし、周囲の他人を見て自分の異常さに気づいてきます。
私は強迫観念に襲われるバイキング形式を心底嫌うようになり、さすがに親も見かねたのかそういうところにはまず行かなくなったので、貧乏をこじらせすぎた結果の悲劇はできる限り回避されることになりました。
○しかし今でも強迫観念に襲われる
さすがに、歳を取り大人になってくると、食べるために吐く、吐くまでに食べるという暴挙には出ることは完全になくなりましたが、今でも食べ放題と聞くと限界寸前まで食べないともったいないという強迫観念に襲われます。
それに、私は小食なのですが、大盛り無料と聞くと今でも無理に大盛りを頼もうとしてしまいます。三つ子の魂百までと言いますし、値段にして50円とかしか変わらなくて合理性がないとはわかっていながらも、強迫観念にとらわれがちなのです。
さらに言うと、これは私だけではなく、私に看過されやすい弟も似たような状態になっています。
十分にお金を手に入れられるようになった今でも、いらないのにとにかく量を最大にしてしまうところがあります。お代わり自由でお代わりをしないなんてことはありえないと言わんばかりです(弟は私とは食べる量が全然違うので、私ほど悲劇は経験していませんが。)。
私も弟も別に食べるのに困るほどの貧乏ではなかったですし、ごくまれにはゲームを買ってもらえたりする程度に良い暮らしはしていたわけですが、幼少期に貧乏を経験してこじらせすぎたせいで今でもかつての貴族の狂った思想に囚われています。
貧乏というのはこういう悲劇に襲われるものなのです。
たまに千円のランチができたからといって「本当の貧困ではない」とか言っていたら、全国各地で悲劇は繰り返されることでしょう。
というか、今や難民でも普通にスマホを持っていたりしますし、発展途上国の人の方が子どもをもてているわけです。
「本当の貧困ではない」論を進めれば、スマホがあるなんて子どもをもてるなんて云々も通用するようになり、貧困の人なんてこの世にほとんどいなくなるんじゃないかと思えてなりませんね。
すんなり京大に受かったり司法試験に受かったりする人は、どこの能力が秀でているのか。どうすれば彼らに近づけるのか。
難易度の高い試験に挑むとなると、努力の量や方向性ややり方に問題があるわけではなくても上手くいかないことが増えてきます。それこそ、かなりの労力をかけ必死に努力してもなかなかうまくいかないものです。
しかし、それでもすんなりと高いハードルを越えていく人というのは存在します。
上手くいっていない人の方が頑張っているというのに、割とあっさり難関の試験を突破できてしまう人が一定数存在するのです。
普通は高いハードルに散々苦戦するはずなのに、ゴールまでのハードルを着実に越え続けすんなり難関も突破してしまう人というのは、いったい何が凄くてどこが優れているのでしょうか。「同じように頑張っているのに、一体どこがちゃうねん」と思っている方も少ないと思います。
意欲とか取り組み方という面も無視はできませんが、今回は能力的なところで一体彼らの何が秀でているのか考察したいと思います。
○記憶力がとんでもなく優れている
身もふたもないことではあるのですが、やはりすんなり難関を突破できてしまう人は記憶力がとんでもないと思わされることが多いです。
とにかくいろんなことを細かいところまでしっかり覚えている人が多いですし、何より記憶が正確です。「なんでそんなどうでもいい年号まで覚えてるねん」などと突っ込みたくなる人も少なくありません。
そして、覚えなければならない物事を忘れずに長い間覚えていますし、それほどムキになって覚えようと必死にならなくてもあっさり覚えられていたりします。
論述のある試験で良い点を取ろうと思うと、細部まで正確に物事を覚えてそれを答案で再現できないと良い点がつかずポロポロ失点をしますし、必要事項を細部まで正確に覚えて再現できる能力と言うのはとんでもなく大事です。
だからこそ、覚えておかないといけない量がとんでもなく多い難関試験ともなると、普通は一筋縄では行かないのです。普通の人はそこまで多くのことを、そこまで正確に覚えきれないのです。
ですが、高い記憶力がある人は、普通の人が相当努力をしても厳しいことでもやってのけてしまえるのです。
○深いところまでしっかり理解している
これは記憶力とも関連が強いのですが、とにかく理解が深く、深いところまで正確な理解があるという人がすんなり上手くいっている印象があります。
物事の表面的な理解だけではなく、本質的なところまで理解していて、応用が効きやすい状態になっているように思われます。
京大など難関試験ともなると、ただ浅い理解をしていたのでまるで歯が立たないような難問がよく出題されますし、深いところまで正確な理解をすることがすごく大事になってきます。
レベルの高くない試験だと深い理解がなくても何とかなるので、普通の人でもさほど問題ないのですが、難関になればなるほどそうではなくなってくるのです。
○集中力・注意力がとんでもなく高い、ミスが極端に少ない
東大などにはアスペルガーが多いという話はたまに聞きますが、常人に比べかなり高い集中力・注意力を持った人が、難関試験をあっさり突破できる人には多いように感じます。
それこそ、「気づいたら4時間経っていた」とか言うような常人には考えられないような集中力を持った人もそこそこいる印象です。気合いでどうにかなるようなレベルを超えて、集中力の次元が違うと思わされるような人も少なくない印象です。
それに、しっかり勉強すればテストで100点を量産するという人が多いように思われます。私のようにどれだけ簡単な問題でも1問は間違えて98点どまりになるという経験を、それほどしない人が多いと思います。
考えてみれば、実力が同じ90でも、ミス率が10%ある人は81点になるのに対し、ミス率が1%の人は89点を取れるわけです(どこでミスしたかによってはもっと致命傷となりますが。)。これがどんどん積み重なっていけば当然差は出てくるでしょう。
普通はいくら気合いがあっても、変な読み違いをしたり、謎の勘違いをしたり、文章の読み落としがあったりして、ミスの数がある程度でるものですが、そういうミスの数が極端に少ない人がいるわけで、そういう人が確実に高い点をとっていくのです。
○バランス感覚がもともとしっかりしている
どの設問にどれだけの時間を使うべきか、論述問題で何をどれだけ書くかといったバランス感覚が優れている人がすごく多い印象もあります。
特別に訓練をしまくったわけでもなく、さほど意識しているわけでもなさそうなのに、何故かバランスがすごく良い答案を時間内に書いてくるのです。
いくら知識のある人でも、バランス感覚が悪くて、あまり配点の振られていないところばかりに力を入れてしまうと当然点は入らないわけですし、時間切れのリスクも高まります。
そういうバランス感覚のまずさでの失点を減らすことが長い論述を課される難関試験では重要であり、それが自然と容易にできてしまう人はあっさり合格しやすいのです。
○無駄がなくかつ適切な回答・解答ができる
本質まで理解する能力やバランス感覚と関わるところが大きいのですが、大事な要素がぎっちり詰まった無駄のない回答・解答をする能力も高い印象があります。
それほど多くの言葉を駆使していなくても、上手く質問に答え、必要十分な解答をしてくる人が多いように思います。
普通はあることないことを書いてしまうものですし、無駄な部分を書いてしまったり、大事な要素をいくつか抜いてしまったりするものなのですが、そういうことをすると失点が増えどうしても点が伸びません。
そのため、適確に聞かれていることに対して、無駄のない適切な答えを示す能力というのはすごく大事です。さほど意識せずともその能力を高めている人がすぐに合格できている気がします。
以上能力的な違いを考えてみましたが、違いを意識してその差を埋める努力をすれば、そこまで素質に恵まれていない人でも、差を少しずつ埋められるチャンスはあります。
具体的に、どういう取り組みをすればよいかは以下のようになるのではないかと思います。
・記憶力
個々人のポテンシャルの差が大きいので、素質に恵まれた人と同じ土俵で戦うのは極めて厳しいです。
論述のない試験や、論述があっても短かったり科目数が限られていたり範囲で絞られていたりする場合は、高い記憶力がない普通の人でも努力で何とかなるので、そこで勝負したほうが良いでしょう。
あと、とにかく復習の量と数を増やして少しでも食らいつくしかないでしょう。
・理解
わからないものは結局わからずじまいに終わることが多いですし、気合いだけで立ち向かうのは困難です。
気合いがあることは当然の前提として、とにっく本質まで理解することに努めることや、得意分野で勝負を挑むことが大事だと思います。
あとは数をこなし、じっくり考える時間が長くするしかないでしょう。深く理解するまでにかかる時間と労力は違えど、いつかは深いところまで理解できるかもしれません。
・バランス感覚
これは訓練で解決可能なところが大きいでしょうし、練習あるのみでしょう。
・ムダなく適切な答えを示す能力
これも意識次第ではある程度改善が可能ですし、簡潔ながらも重要な要素をぎっちり詰め込んだ適切な回答・解答をする練習を積むのが大事でしょう。
まあ、本当に無駄のない美しい答えをするのはとんでもなく難しいんですけどね。
若く美しい女性は花にたとえられるが、自分はその花ではないという事実【閲覧注意】
※容姿に強いコンプレックスのある女性や、GIDの方は傷がえぐられるおそれがあるので注意してください。
日本では昔から、美しい女性を花に例えて表現することが多いです。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉に代表されるように、美しい女性は、同じく美しく綺麗な存在である花のように丁重に扱われ、価値のあるものとして認識されます。
しかし、ほとんどの男性や美しくない女性は花ではありません。
また、美しさを失ってしまった女性はもはや枯れた花扱いです。
ただそこにいて普通に振る舞うだけで、人を喜ばせ、自分の存在意義を実感することができ、自分を尊いものと思うことのできる美しく綺麗な花ではないのです。
美しく綺麗な花ではない存在は、ただ存在しているだけでは無価値です。いやそれどころか下手すると有害なものとして扱われます(イケていないおじさんを見てみましょう)。
そのため、何をするか、何をできるかが大事であり、必死に何をできるかという点を追及しなければ、自分の存在意義を確かめられません。他人から価値を認められないだけではなく、何より自分自身を価値ある大事なものと認めることができません。
そして、必死に自分の能力を磨き成功をつかんだとしても、よほどの成功でない限り、ようやく美しく綺麗な花と同じ土台に立てるだけです。
5年かかるか10年かかるかわかりませんが、そこまでしてようやく同じだけの価値を手に入れることができるのです。
私も自分自身が美しく綺麗な花でありたいと強く望んでいましたが、残念ながらその花ではありませんでした。私がいくら努力を重ねようと、見た目はせいぜい禍々しくおぞましい花のような何かが限界なのです。ちょっとかわいい花程度でも十分すぎるぐらい満足なんですけどね。
せめて美しく綺麗な花と同じだけの価値をもちたい、内面だけは美しく綺麗な花でありたいと願い、人生の半分以上の期間かなり無理して頑張ってきました。
その結果途中でうつ病になりましたし、就職に失敗したり、ハローワークに通った末ブラック企業に入社したりと酷い目に遭いましたが、それでも世間では評価のそこそこ高い大学には行きましたし、結局は社会的評価の高い職に就けることとなりました。
また、内面は闇がとてつもなく深いのですが、周囲からは聖人扱いやいい人扱いされることも少なくありません(人というのはあまりに見る目がなさすぎる)。
もしかしたら、傍から見ると美しく綺麗な花と同じぐらいの価値を持ち始めているのかもしれません。
しかし、自分自身はと言うと、自分に素晴らしい価値があるとは到底思えませんし、自尊心はまるで持てません。
「結局他人が評価し、自分を評価できるのは美人じゃないか」、「これだけ頑張ってようやく対等とかふざけるな」などとよく思いますし、この世界の理不尽さには心底嫌気がさします。
私にはどうも、「見た目が残念だろうと、男は金を稼いで綺麗なねえちゃんを捕まえればいい」的な価値観とはとても相いれないようです(何故、恵まれた者に恵まれないこちらが施しを与えないといけないんだとしか思えません。)。
自分のやることや行動・思考に価値があるだけで、何もないフラットな自分は無価値どころか有害なんだと思えてしまいます。
結局、美しく綺麗な花でありたいと願う者が、ちょっとかわいい花にすらなれず禍々しい花のような何かになれるのいいところだとだと、どう頑張っても自分自身を価値あるものとして認めることはできないのだと思います。
他のことで自分の価値を高めようと心底努力したところで、コンプレックスは多少マシになるだけですし、苦しみは消えません。おそらく一生残り続けるでしょう。
槇原氏のように誰もが世界に一つだけの花だと考えられればよいのでしょうが、あまりに苦しみを背負いすぎてこじらせてしまったのか、どうもそういう優しい世界観は受け入れられませんね。
「良き相手が見つかったら変わる」、「家庭を持てば変わる」ということも苦しみがまだ浅い人にしか期待できないでしょうし、私には到底当てはまらないと思います。というかその前提が満たされることはまずない気がします。
それにしても、日曜の朝から私はなんて重たいテーマを語っているんだろう。
同じ「障害」であっても世間の反応は大違い
最近では、連日パラリンピックが話題となっていますが、そのパラリンピックを見ていて「やはり身体障害とそれ以外の精神障害とかとは反応が全然違う」、「身体障害については差別がかなり減ってきたけど、それ以外は…」ということを実感したので、その話をしたいと思います。
○身体障がいは足が動かない、手が動かないだけの人という認識になってきている
車椅子テニスやバスケなどパラリンピックの競技を見ていると、身体障害を持たない人と同じかそれ以上に激しい運動をしている競技が少なくありません。
身体障害でも思い切り激しくスポーツをしていますし、やや特殊なルールの下プレイしているだけで、「足が動かないとか手が動かないといったこと以外は本当健常者と変わらない」と実感している人も多くなっているのではないでしょうか。
また、今ではニュースでも、別に身体障害だからと言って他のアスリートと比べて特異な扱いをすることはそれほどないですし、他のマイナースポーツと同じような扱われ方をすることが多くなっています。
障害があるからと言って過度に感動ドキュメンタリーばかり作ることはあまりなくなってきているのです。
身近にいる身体障害の人への社会の認識・反応を見ていても、ただ不便な箇所があるだけで、特に健常者と変わらないと考えてきている人がかなり増えているのではないかと思います。
今時、「身体の片○落ちは精神の片○落ちなり」といった差別発言をするような人はかなり減ってきていますし、身体障害者でもゲスな不倫をすれば当然叩かれます。かわいそうな障害者だから批判してはいけないみたいなことは減ってきているでしょう。
できることが大幅に限定され何の仕事もできないレベルの身体障害となると話は変わるのでしょうが、そうでなければ世間的には「不便なところがあるだけで健常者とさほど差がない」、「ただ足が動かなかったり手が動かなかったりするだけの人」という認識が広まっているように思われます。
身体障害については、偏見や差別はかなりの程度マシになってきているのではないでしょうか。
それに対して精神障害となると、まだまだ偏見や差別は強いですし、正しい認識・理解がされていないところが多いでしょう。
例えば、薬で症状を抑えられる人が多くても、統合失調症や躁うつ病などは「頭が狂った人」、「○チガイ」などと思われることが多いですし、ネットを見れば差別発言であふれています。
それにうつ病などは、いまだに「ただ怠けている人」、「ただの甘え」とか言う人が多いですし、誤った認識をしている人が少なくありません。学のなさそうな人の戯言とWHOの見解のどちらが正しいかは一目瞭然なのですが、それでもまるで無理解の人は少なくないのが現状です。
精神障害と聞いただけで、身体障害とは違って「関わりたくない」と思う人は少なくないでしょうし、投薬で改善できたとしても必要以上に「危ない人」、「リスクの高い人」とのレッテルを貼られがちです。
就職という面でみても、身体障害とは受け入れやすさがまるで違うでしょう。
ましてや知的障害となると、もはや腫れ物に触るように扱う人が極めて多いです。
また、ネットでは「社会の役に立たないし、さっさと○せ」、「税金の無駄遣い。安楽死させるべき」みたいな言論も多いですし、いくらなんでも酷いと言いたくなるような扱われ方をされています。
同じ「障害」であっても、比較的偏見の少ない身体障害とは全く違うのです。
○発達障害、パーソナリティー障害とかを考えても…
現代社会では、いくら学力があったり特殊な技能を身に着けていたりしていても、コミュニケーション能力が低いとそこが致命傷になって満足に職にありつけない羽目になりがちですし、いかにうまく社会生活を送れるかの能力がかつてより重要となってきいます。
そういう社会においては、社会生活を送るうえで支障を来しやすい発達障害やパーソナリティー障害の人は特に生きにくい状況になりがちです。
しかし、社会生活に支障をきたしやすいという問題があっても、日本では単なる性格の問題で済まされがちです。今では当事者を中心に少しずつ理解は広まってきているもののそれでもまだまだの状況です。
少しの工夫で支障を取り除ける場合であっても、その術を本人も周りも知らないがために苦難が増えることはままあります。
実はただのだらしない性格ではなく障害であって、適切な投薬によりミスを減らしQOLをぐっと上げられるのに放置されたまま、みたいな人もいまだに多いでしょう。
政府の対策を見ても、発達障害の支援法ができたのはほんの12年前のことですし、支援の歴史は非常に浅いです。
また、身体障害と比べると具体的な支援も厚くないですし、社会の認識もまだまだだなと思わざるを得ません。
○さいごに
身体障害についてはだいぶ支援もされていますし、社会の反応もマイルドになってきていますが、それ以外の障害についてはまだまだ支援も浅かったり、偏見が酷いままだったり、正しい認識が広まっていなかったりで問題だらけだなと良く思います。
身体障害についてはここまでマシになったのだから、もうちょっと他もマシにならないものなのでしょうかね。