人物評価は人間性や人格以外の点を見すぎではないか 本当に人物評価と言えるのだろうか
今では公務員試験でもいわゆる人物評価を重視して、面接の配転を増やしたり、筆記試験は1次選抜のみ利用しそれ以降の選抜には利用しない方式(リセット方式と言われている)を取ったりするところが増えています。
大学入試でも、東大や京大ですらついに推薦入試を導入しましたし、今や一般入試での大学入学者は5割5分ほどにすぎません。約4割5分が人物評価が重視されることも多い推薦入試や、AO入試などで入学している状況となっています。
今や人物評価は昔に比べかなり重視されているようになりましたし、表だって「人物評価を軽視すべきだ」なんて意見は言いづらいご時勢となりましたが、個人的には人物評価には問題点が多いと思っていますし、本当にどれだけ有用なんだろうと疑問に思っています。
そもそも、人物以外の要素見すぎじゃないか、これで人物評価と言う名前を付けていいんかいなどと強く思っていますし、人物評価についての批判をしたいと思います。
1.人によって評価基準が違いすぎる
択一式(マーク式)の問題では、何が正解か何が間違いかははっきりしていますし、論述問題でも、採点基準ははっきり決められていて採点者の点数を決める裁量はかなりの程度制限されています。
そのため、ペーパーテストでは、誰が採点を行ったとしても、受験生に有利不利はできにくい構造となっています。
それに対して人物評価は、ペーパーテストほどの厳格な採点基準を作りづらい性質がありますし(勿論、まともな組織ならちゃんと基準は作っている)、その基準のうちどこに当てはまるかの判断はどうしても面接官によってブレが生じやすいです。
同じ行動一つを取ってみても、「周りを引っ張っていてリーダーシップがある」と評価して協調性があると判断する面接官がいれば、「自分ばかり目立とうとしている」と評価して逆に協調性がないと判断する面接官もいるでしょう。
同じ人を見ても、「言うべきことをはっきり言う。骨のある人」と良いように評価する面接官がいれば、「人の気持ちも考えずに喋るろくでもない奴」と悪いように評価する面接官もいるでしょう。
ネットでもスポーツ選手のコメントに対して、賛否両論が出ることはままありますが、面接でも同じように人によって印象が正反対になることが当然あるわけです。
運よく自分を評価してくれるタイプの人に巡り合うか、不幸にも自分を嫌うようなタイプの人に巡り合うかで人物評価の点数が大きく左右されてしまうわけです。
ペーパーテストでも運要素はありますが、人物評価は特に面接官次第で結果があまりにも変わりやすいでしょうし、運要素が大きすぎるでしょう。
万人から評価されるような人は少数ですし、一般人は評価する人もいれば評価してくれない人もいるという状況が普通なので、多くの人はあまりにも大きい運要素に左右されがちです。大半の人が、人生の重大な決定で大きすぎる運要素に翻弄されるというのは制度としていかがなものでしょうか。
2.評価があまりにも簡単にいじれてしまう
人物評価と言うのは、どうしても採点基準が厳密に作りづらく、その基準に当てはまっているかの判断も人によってブレやすく、何をどう評価したのかについてはブラックボックス状態なところがあります。
ブラックボックスの中でも正当、公平、合理的に判断がなされていれば問題ないのですが、残念ながらブラックボックス状態をいいことに公平性を害して評価を行うことは一般的に行われているのが現状です。
代表的なのは、一部の市役所(事務職)や裁判所事務官などの女性優遇措置です。
これらの組織では、面接試験での極端に女性の合格者が高く、いくらなんでもアファーマティブアクション、ポジティブアクション以外では説明がつかないとしか思えないほどの差異がついていたりします。
要するに人物評価と題して、事実上は事務職に女性ばかりを採用するため意図的に調整をかけているわけです。
これでは事実上「男性はマイナス評価、女性はプラス評価」というように性別を評価しているようなものですが、はたして性別の評価というのは人物評価に当たるのでしょうか。
「人物」と言うと、普通は性格、人間性、人格などを指すと思いますし、性別を人物評価の一要素として含めることに妥当性があるのかはかなり怪しいと思います。それに性別と言う生まれながらにして与えられる自分の力では変えようのない要素で、評価を変えられたらたまったものではありません。
また、医学部入試のように人物評価を隠れ蓑にして年齢により点数を調整することも現実には行われています。
一部の大学では、年齢が一定以上だとどれだけまともに受け答えをしていようと問答無用で0点をつけられることがあるのです。年配の人を冷遇し排除する手段として、人物評価が使われているのです。
年齢による取扱の差異を設けること自体は認められてよいかもしれませんが(国の予算で医師を育成する以上、育成にかかるコストを回収できるような人を合格させなければならないという要請があるため)、年齢と言う要素を人物評価の一要素に含めるのはいかがなものでしょうか。
年齢が上だから人物評価では点をつけないというのは、まるで「年齢が上だから人としては0点」と言っているように見えますし、それをやるなら堂々と人物評価とは違う項目で加点減点を設定しろと言う話です。
人物評価である以上、まともで誠実な人なら何才だろうと点数がつかないとおかしいはずでしょう。
そのほかには、ある家柄の人やコネを持っている人を密かに優遇するパターンもあるでしょう。
日本は中国ほど行政が腐敗していないでしょうし、コネがあるから試験はフリーパスみたいな状況はかなりの程度減ってきているでしょうが、不自然なほど定期的に不祥事を起こしている部署をもつ市役所や県庁も実際に存在しますし、人物評価と言う不透明な選抜手段を利用して、一定枠はある特定の層を優遇して採用することが行われているのではないかと思われる事態は現に起きています。
本来は採用されてはならないような特定の権力者の子や特定の層の子が、人物評価が悪用されることで採用されてしまうと、住民にとっては大きな損害でしょう。
このように人物評価の不透明さを利用することで、権力をもつ者が思うままに調整を行えてしまうおそれがあるので、安易に無批判に人物評価を導入してはならないのです。
3.顔、身長、スタイル、声など外見・容姿に左右されすぎる
意図的な調整でなくても、人の持つ属性によって有利不利は生じます。
代表的なものでいえば、容姿による有利不利は評価に大きく影響するでしょう。
というのも、面接官が男性なら当然さえない男子やブサイクな女子よりも、美人の方を優先して通そうと考えてしまうものでしょうし、面接官が女性だとしても、身長185cmのイケメンと165cmのブサイク男子では、よほど前者がやらかさない限り前者を取ろうと考えがちになるからです。
私だって、もこみち風のイケメンが来たらよほど頭のおかしい人でない限りは高い評価をつけてしまうとしか思えません。
普通は、一緒に働いたり研究したりする相手は容姿に恵まれている人がいいと思うものですし、意識的でなくても容姿に恵まれている人については少しでも良いところを探し、容姿に問題のある人についてはあらさがしをするということが無意識のうちに行われるのでないでしょうか。
人間が評価者である以上、容姿がすごく重視されてしまっているというのが現実だと思います。
しかし、その人がその人をあらしめるのは外見ではなく中身・脳でしょう。
仏教的に言えば、身体は現世で一時的に借りている物みたいなものです。君の名は。を見た方なら、瀧君の入った三葉を三葉と言い切ってしまうのは抵抗があるでしょう?
人物評価にいう「人物」としては、その人がその人あらしめる主たる要素である正確、人間性、人格と言った要素こそが重要であり、それらに重点をおいて人物評価をするべきではないでしょうか。
容姿も「人物」に含まれるとも考えられるかもしれませんが、あくまでビジュアルは主たる判断要素とすべきではないでしょう。
容姿を判断基準にしたいなら、人物評価なんていうあたかも性格や人間性、人格を評価する名前をつけるべきではないと思います。
4.最後に
他にも言いたいことはありますが、とにかく「実際には、性別や容姿、家柄と言った人物評価として不適切そうな要素を思い切り主として考慮しているのに、何が人物評価やねん」と言いたくなります。
人となりは経歴にも表れているところがあるので、別に経歴ぐらいは見ても良いと思いますが、人物評価と言うならちゃんと性格や人間性、人格を見るべきでしょう。それなのに、そのほかの要素をあまりにも重視しすぎですし、作為が入れられやすすぎです。
それに、上辺ばかり見てないか、その人がどんな人物か本当に見ているのかと問いたくなります。
まあ、経歴ボロボロで、容姿も別に恵まれていない私でも人物評価で良い評価をされることがあるぐらいなので、見ている人は見ているんでしょうけどね。でも、闇の部分を見落としているから、やっぱり人物評価ってだめかもしれない。