制服なんてズボンとスカートの自由選択でいい
数日前に、女子の制服でズボンを選ぶことができる学校の話がネット上で話題になりました。
この学校でトランスジェンダーへの配慮を理由としてそうしたようですが、そういう理由抜きにしても私自身は長らくズボンかスカートなんかなんて自由でいいだろと思っていた人間なので、その話をしたいと思います。
○好まない格好を無理にさせるべきではないのでは?
普段の生活ではあまりスカートをはかない女子は割と多くいますし、中には全くと言っていいほどスカートをはかない人もいます。
スカートを好まず、できるだけはかないようにする人も一定程度いますし、中には私の妹のように、大学生になるまで1度たりとも自分の意思でスカートをはいたことがないほど忌み嫌っている人までいたりします。
服装は自分のアイデンティティーを示す象徴的なところがありますし、わざわざ好まなかったり嫌っていたりする服装をさせるのもどうかという話です。
ただでさえ学生は制服着用を強要され、髪型や髪の長さ、髪の色も制限が加えられ個性を奪われるわけですから、せめてスカートかズボンか選ぶ権利ぐらいは与えて、より良い学校生活を送れるように配慮すべきではないでしょうか。
○スカートでなければならない理由も別にない
そもそも、ズボンでなくスカートでないといけない合理的な理由があるのでしょうか。
「とりあえずビール」的な発想で、とりあえず女子はスカートでええやろという流れで、男子はズボン女子はスカートとなっているだけな気がしてなりません。
男女で制服に区別を設けるべき合理的理由はあまり考えられませんし、女子がズボンをはいたところで女子生徒の脚を見たがっている残念な男子が悲しがるぐらいで、特に多いな問題が生じることもないでしょう。
まともな社会であれば、自由を制限するにはそれ相応の納得いく理由が必要なはずですし、合理的な理由がない以上はズボンかスカートかなんて自由選択にすべきではないでしょうか。
○スカートを好まない理由は人それぞれ
上の記事で挙げられているようなトランスジェンダーの子にとっては、スカートを穿かされるなんて恥辱だったり屈辱だったりするわけです(男性の方であれば、自分がスカートを穿かせられると思ったらどういう思いをするのか考えれば、すぐわかるでしょう。)し、多大な苦痛を受けることを考えれば制服を自由選択させるだけの合理的な理由があるでしょう。
そうでなくても、思春期の頃は性的変化に気持ちがついていかないような子がいるわけで(歌手のCoccoさんがこのタイプらしい)、ガーリッシュな服装を嫌う人は少なくないです。性同一性障害や性別違和に分類されなくても、多大な苦痛を受ける人はいるわけで、そういう人にとっても自由選択を認める必要性は高いのです
それに、私の妹のように風貌があまりに男っぽいせいであまりにもスカートが似合わなくて苦しむ人もいるのです。
制服を着ているところを見られて「女装かよw」と笑われたり、小学生に「お前女だったのか!?騙したな!」と言われたりする人の身にもなってみてください。
そんな悲しく辛い思いをする子も語られないだけでいるわけですし、スカートを強制するようなことは避けるべきです。
それに中には足に傷や痣があったり、やけどの痕があったりしてそれを見られたくないみたいな人もいます(現に私も足にやけどの痕があります)。
どこまでがくみ取るべき合理的な理由かはわかりませんが、人それぞれいろんな事情を抱えているわけですし、一般論では大したことがなくても本人にとってはとんでもなく重大な理由であることもあります(「足が太くて見られるのが嫌!」とかはそこまで合理的な理由ではないかもしれませんが、個人的には思春期なんだからそういう思いにも配慮しろよと思います。)、
いちいちどういう理由を詮索して個別にズボンの許可を出すのもなんですし、いっそのこと完全自由選択にして、ズボンがいい人はズボンを穿けばよいとすれば綺麗に物事は解決するのではないでしょうか。
○社会人ですら自由選択の流れが強い
OLは当然スカート着用という時代もあったでしょうし、今でも女性の制服はスカートという会社や組織はあるでしょうが、今や就職活動の時でもパンツルックの人が増えていますし、会社でもパンツとスカートどっちでもよいとしているところも増えていると思います。
学校は社会人育成の場所みたいなところがあり、良き社会人になるため学生時代から社会人に合わせて格好も規制するところがありますし、社会人の服装が自由になってきている以上、学校でもズボンとスカートは個々人好きに決定すればよいのではないでしょうか。
○冬寒いのにスカートしか選択肢がないのは拷問でないか
個人的に「寒くないんか」といつも思っていますが(絶対寒いよね)、冬にスカートでなければいけないというのはあまりひどいものです。
タイツなどで多少は防寒対策ができるのでしょうが、やはりズボンの方が防寒に優れているでしょうし、何故めちゃくちゃ寒い中女子に可哀相な目に遭わせるんだという話です。
おしゃれのために寒くてもスカートという子は自己責任ですが、「寒さ対策が優先。(学ランとかまで着るかはさておき)冬場は男子と同様ズボンにさせて」と思う子の意思は尊重すべきでしょう。
○まとめ
以上のことを考えてみると、性同一性障害とか性別違和とか関係なく、自由選択にしたら救われる人が増えますし、より良い学校生活を歩める人が多くなるんじゃないかと思います。
まあ戸籍上の性別通りの制服を着ることとなって死のうかと思った私なんかは、仮に自由選択だったとしても、偏見をおそれてみんなと合わせざるをえなかったと思いますし、結局トランスジェンダーへの配慮といっても、肝心のトランスジェンダーについては一部のFtM(体が女で精神が男)しか救われないんですけどね。
自分よりすごい人達が簡単に目に入りすぎる時代
インターネットが普及して久しい現在、ネットの浸透により人や社会は大きく変わりましたが、その中でもすごい人たちを簡単に目にしてしまうことについて少し語りたいと思います。
○すごい人たちを簡単に目にできるようになった
インターネットがあまり普及していないころは、自分と遠く離れた場所に住む人たちの姿を目にすることはあまりなく、狭いコミュニティーの中でしか他人を見ることができませんでした。
そのため、バリバリのキャリアを持つ人のありがたいお話を聞きたければ講演会のためわざわざ遠くまで行かないといけなかったり、セレブの生活ぶりを見るには自分もそれに近い存在になって交流を持たないといけなかったりしました。
それに、上の例で挙げたような人たちは自分が然るべき場所、然るべき地位にいれば見ることができましたが、自分がどう行動しても上手く会えるわけではないパターンもありました。
例えば、アマチュアでとんでもなく歌が上手かったり、絵が上手かったり、ゲームが上手かったりする人に出会うには、たまたまそういう人の集まる場所で育ったり生活していたりしていたかが重要であり、運要素が非常に大きくそういう人たちに会えずじまいで終わる人たちも多々いました。
私も身近にぷよぷよが超絶上手い人がいませんでしたが、いれば練習と経験を積んで自分ももっと上手くなれたのにとつくづく思います。
しかし、今では難関試験を超上位で合格した人、とんでもなくすごいキャリアを持った人、とんでもなセレブ、めちゃくちゃ歌が上手い人、絵が上手い人、ゲームで屈指の腕を持つ人の様子を簡単に目にすることができますし、自分が目にしようと思えば簡単にすごい人たちを目にすることができるようになりました。
インターネットの存在で、いろんな分野で凄い人たちを簡単に目にすることができるようになったのです。
○しかも距離がすごく近くなった
さらにインターネットでは、ブログのコメントやツイッターでの返信などを使うことで、直接その人にメッセージを与えることもできますし、相互にやり取りをすることが容易になったこともあって、すごい人たちと普通の人の距離が非常に近くなりました。
はてなだけ見ても、大企業でキャリアを積んだ人なんかは結構いますし、やたら良い文章や漫画を書くことができて書籍まで出版してしまってるような人もいますが、そういう人たちともやり取りをしようと思えばできますし(相手が無視することもあるでしょうが)、インターネットがあまり普及してなかったころとは距離感が全く違うものになりました。
要するに、色んな分野のすごい人たちが、より身近な存在として目に入るようになったのです。
○しかし、あまりにも簡単に目に入りすぎてしまうことで問題も
私たちは自分より凄い人を目にすることで、刺激を受けたり感銘を受けたりし、その人が取った方法論や技術を参考にして、自分の人格や能力を高めることができます。そこまで大それたことでなくても、日々の楽しみは増えるでしょうし、おそらくQOLは上がるでしょう。
そのため、すごい人が簡単に目に入る。いや入りすぎるようになったのは基本的には良いことが多いでしょう。
しかし、世の中では、どうしてもすごい人ばかりにスポットライトが当たってしまうため、凄い人たちばかりが注目されがちです。
そこまですごくない人たちにとっては、自分もなかなか上手い絵を描いていたり、上手い文章を書いていたり、上手く歌を歌っていたりしても、自分以上の存在がいるせいで自分がかすんでしまうのです。
昔であれば狭い世界で、「地元じゃ負け知らず」になって、周囲の人に称賛され自尊心を持てていたにもかかわらず、ネットの存在で多くの人が凄い人たちを見ることができるようになった結果、称賛は思ったほどもらえず自尊心も満たせなくなってしまったのです。
それに、すごい人たちが目立ってしまうと、どうしてもスタンダードがそのレベルだと錯覚してしまいがちであり、人々のものを見る基準が厳しくなり、要求水準が高くなります。
かつてであれば普通に上手いと言われていたものでも、下手くそと言われることが増えますし、高いレベルについていくのに苦労する羽目になりがちです。
漫画やゲームやアニメや個人が上げる動画などで顕著ですが、クリエイターは、レベルの高いものを簡単かつ大量に目にすることができるようになり要求水準が上がりに上がった視聴者を相手にしなければならず、非常に労力がかかるようになりました。
それなのに、要求水準が上がっていて他のすごい人たちが簡単に目に入るため、称賛・承認はなかなか得られないという恐ろしい事態が生じているのです。
○承認意欲の満足が難しくなった今、クリエイターやブロガーはどうすべきか
現代社会では、凄い人たちが簡単に目に入りすぎるせいで、人々から称賛されたり、承認意欲を満たしたりすることが困難になってきているわけですが、この事態にクリエイターやブロガーはどうするべきなのでしょうか。
一つは、承認意欲など考えずに好きで物事をやり続けることが考えられます。
承認意欲を満たすのが困難になっても、そもそもの目的が自己満足であれば関係ありません。だいたい本当に好きなものは好きだからやっているのであって、誰かに認められればさらに嬉しいなる程度でしょう。
特に絵を描いている人なんかだいたいこういうタイプが多いと思います。ただ絵を描くことが喜びであり、自分の人生を豊かにする。だから書く。そういう人が特に多いと思います。
そんな感じで、人の評価など気にせず、同じ分野にいる他人のことなど目に入れず、物事をやるのが良いのではないでしょうか。
(私も自分の心の闇を文章にして解放しないと精神が崩壊するような人間ですし、書くことで自我を保ち、よりよく社会生活を送れるようになっている気がします。)
もう一つは、自分がすごい人たちになることが考えられます。
いくら物事のスタンダードの水準が上がったとしても、それについていける人であれば問題なく、多くの人から称賛を受けられるでしょう。
かつてのように身内からしか評価されなかったことが、インターネットにより全国・全世界から称賛の声を受けることができるようになったわけですから、凄い人たちにとってはむしろ今の時代は承認意欲を満たしまくれる素晴らしい時代です。
(私もブロガーとしてすごい人の仲間入りをして、少しばかり儲けたいものですね。格ゲーやFPSの世界は到底無理ですわ。)
もう一つは、見る専門になることが考えられます。
やはり、頑張ってもあまり他人から認められないというのは辛いことですし、誰もが多くの人の心を震わせる文章を書いたり、歌を歌ったり、ゲームで凄いプレイをしたりすることはできません。
それならいっそ他人から評価されないクリエイト活動はやめて、見る専門になるというのもありな選択肢だと思います。そうするほうが楽でしょうし、人生が豊かになる可能性が高いかもしれません。
他にもニッチな分野に走りオンリーワンになるなどの選択肢がありますが、だいたいQOLを挙げようと思えばこんなところだと思います。
○まとめ
徒然なるままに思うことを書き散らしてみましたが、
「凄い人たちが簡単に目に入りすぎる→人々の要求水準が上がる→クリエイター、頑張っても評価れない。クリエイター泣かせ」
という事態がいろんな分野で進んでいる気がよくします。
容姿だとか学歴だとか年収ですら、芸能人の影響のせいでそんな感じですね。どこかの芸能人へのバッシングではないですが、横浜国大が大したことないとかいう人はいくらなんでもネットに毒されすぎだと思います(これに関してはただ単に大学受験に無知なだけかな。)。
特にYoutubeやニコニコ動画なんかを見ていると、10年ほど前に比べて求められている水準が上がりすぎです。ボーカロイド楽曲なんて「PVはあって当然、調教も完璧にして当然」みたいな謎の風潮もありますし(いつからそんなにPVが重視されるようになったのか詳しくないのでわかりませんが)、あまりにいろんな分野で求められる水準が上がりすぎていて、そのせいでいろんな人が苦しみ、承認意欲を満たせない羽目になっている気が強くします。
ブロガーもそうですが、ネットで何らかの活動をする人にとっては厄介な事態になったものです。
何故、ひたすら知識と理解を深めていく勉強法は上手くいかないのか
司法試験の定説として、「学説の深みにはまりだすと受からなくなる」、「知識や理解ばかりを追い求めていくと受からなくなる」というものがあります。
司法試験の世界に入ったことがない人からすると、「知識や理解が深まれば自然と合格が近づくのでは?」と思いがちだと思いますし、何故受からなくなったり合格が大幅に遅れたりするのか説明してくれる人があまりいないので、個人的にこれだと思う理由を書きたいと思います。
1.試験に求められていないことを学んでも点に結びつきにくい
大学入試でも「マニアックなところに走りすぎるな」という助言が多く聞かれますが、何故やたらと知識や理解を積み重ねていくとまずいかというと、何といっても試験に出ないからです。
いくら真面目に学習して、学者としての素養を伸ばし、試験で出ないような高度すぎる難解なことについて力を伸ばしたとしても、結局試験は点取りゲームなので点にはあまり結びつきません(一応試験で出題されるところの知識や理解も少しは深まるので、多少は結果が良くなるでしょうが。)。
試験対策という意味では、あくまで試験に出る範囲内で問題をしっかりとけるようにすることこそが大事であり、それを超える学習をしてもあまり意味がないのです。
上位ローの講義が「司法試験にあまり役に立たない」といわれがちなのもこのことが理由です。勿論、知っといて損がないことや、試験を解くうえで直接は役立たなくても間接的には役立つこともあるので一概には言えないのですが、あまりに高度すぎて試験に役立ちにくいことに力を入れすぎていてもコストパフォーマンスはすごく悪いのです。
2.真の弱点を克服できないままになる
難関試験ともなると、知識や理解がある程度なければ話にならないので、当然知識や理解は大事なのですが、それさえあれば上手くいくほど司法試験は易しくありません。
実際には、どれだけ正確かつ迅速に判例の規範を書き出せるか・論拠を述べられるか、どれだけ的確かつ迅速に事実を抽出し評価を下せるか、どれだけ全体を上手くまとめられるか、どれだけ時間内にバランスよく書けるか、どれだけくだらないミスを減らせるかといった能力なども大事であり、弱点がどこにあるかは人によって違います。
自分は「知識や理解が足りない」と思っていても、実際にはそれだけが問題ではなく、他の点でも問題を抱えていることがほとんどでしょうし、他の問題もしっかり解決しないと思うような結果が出るわけがないのです。
ただ知識や理解を深めることばかりに力点を置くと、どうしても真の問題点が解決されないままで終わりがちになり、結果的に泥沼に入りがちになるのです。
あまりはっきりとは言われないことですが、私としては一番の問題点がまさにこれだと思います。
近年は司法試験の世界でも、「敗因分析こそが大事だ」という認識が今まで以上に広まってきましたが、それはまさにここの問題点こそが特に重要と気づく人が増えたからです。真の弱点克服にこそ力を入れないといけないのです。
3.知識や理解を正確かつ迅速に使いこなす能力こそが大事
2とも重なることですが、司法試験などの難関試験では、十分な知識や理解があることを前提として(その前提を満たすだけでも大変すぎるので勘違いしがち)、それをいかに使いこなせるかが問われています。
ただ、知識や理解を培うだけではなく、それらを発揮してしっかりとした答案を作成しなければなりません。知識や理解をどれだけ正確かつ迅速に駆使することができるかが大事になってくるのです。
そのため、どれだけ短時間で正確にその問題に応じて論証を書き出すことができるのか、どれだけ短時間で的確に事実を検討し評価を下すのかといった能力を磨く必要があるのです。
ただ、知識や理解を入れ込むだけではダメですし、十分程度を遥かに超えて知識や理解を入れ込んでも上のような能力を培えなければ宝の持ち腐れです。
味気ない言い方になりますが、受験生としては学者が身に着けるような高度すぎる知識や理解を培うのではなく、一定程度の知識や理解を元にいかに試験で点を取れる答案を書けるかが大事であり、いかに正確に早くうまく答案を作成できるかの訓練をすべきなのです。
4.おわりに
一言「学説にはまったらアカン」みたいなことをおっしゃる先人は多いですが、なぜダメなのか詳しく述べるとこんな感じになります。
司法試験などの難関試験は、アプローチ方法を間違えなくても泥沼に入りがちなので、ましてや大事なことを見誤ると大変なことになります。
なので、私のような大失敗を経験した人の話は、しっかり聞いておくとよいと思いますよ(ステマ)。
やらない後悔よりやる後悔←そもそも後悔するのが間違いではないか?
世の中には「やらない後悔よりやる後悔」という人が少なからずいますが、冷静になって「そんなことないやろ」と思っている人も少なくないと思います。
私としては、そもそもやろうがやるまいが、後悔する時点で間違いじゃないかと思っているので、その話をしたいと思います。
○やる後悔もダメージは大きい
やる後悔だろうがやらない後悔だろうが、結局後悔すればそれだけ精神にかかる負荷も大きいですし、ダメージがあります。
むしろやる後悔の方が、物事にそれだけ労力や時間、お金をかけていることが多いと思われるため、失われた利益はさらに大きくなりがちです。やらない後悔であれば労力や時間は失われないので、まだダメージは小さいかもしれません。
それに、「これだけやったのにダメなのか…」と辛い思いも増しますし、まだ「あれをやっとけばよかった」と夢を見ていたほうが幸せなことも少なくないでしょう。
結局、やる後悔はやらない後悔と同じかそれ以上にダメージの大きい行為でしょうし、後悔する時点で既にダメな状態になっているのです。
○後悔したところであまり意味はない
それにいくら後悔しようと、過去を変えることはできませんし、昔の選択を悔やんだところで辛いを思いが増すだけです。
「他のことをやっておけばよかった」と思っても、すでにやってしまったことは変えられませんし、後悔によってマイナスの感情を大きくしても仕方がないでしょう。
ありきたりのことではありますが、過去は反省だけしておいて、今と将来どうするかを考えるしかないのです。
○その当時としては合理的な選択で、上手くいかなかったのは結果論かもしれない
よくない結果が出ると、人はどうしても「ああすればよかった」と色んなことを考えるものですが、それは所詮結果が出たからこそ言える話です。
選択をし判断をした当時の段階においては、様々なことを考慮して末に合理的な選択をしていた可能性があります。
特に人生の岐路での重要な判断ともなると、じっくり物事を考えるのが普通ですし、いろんな人の話を聞くはずなので、かなり合理性がある判断をしているのが通常です。
結果が出なかったとしても、それはたまたま運が悪かったり、後に自分には合わないことが発覚したりしただけの可能性は割と高いでしょうし、当時のその段階では正解を導いていたり、最善の選択をしていたりしていた以上過去の選択を悔んでも仕方がないのではないでしょうか。引いた運が悪かったのも、予測に失敗するのも、結局は運が悪かっただけの話です。
神の目で見ない限りは未来の予測ができなかったわけですから、どうしようもないことですし、自分に落ち度があるわけではないのです。落ち度のない自分の選択にとやかく言うことに何の意味があるのでしょうか。
合理的な選択をしたのに、ただの結果論を根拠に後悔するのはあまり賢そうではないですし、辞めたほうが無難だと思います。
○ほかのことをしたところで結果が出たかはわからない
Aという選択をし、Bの選択肢を捨てた場合、私たちはつい「Aで失敗したけど、Bを選んでおけば上手くいったかもしれない」、「Aでもそこそこだったけど、Bならもっとよかったかもしれない」などと選ばなかった選択肢の可能性を妄想するものです。
しかし、実際には、その当時において合理的と思われる選択肢がAだった上、Bはもっと成功確率が低く、成功して得られる利益の期待値も低かったのではないでしょうか。妄想ではいくらでも調子のよいことを言えますが、実際本当にそちらを選んでいてうまくいったのかという話です。
例えば、理系を選んでよい大学に行けなかったという人も、純粋に勉強していないのであれば文系を選んでも失敗している可能性は高いでしょう。
公務員試験ではなく民間企業を中心に就活をしとけばよかったという人も、公務員試験の緩い面接にすら落ちているコミュ力だったら、民間企業での就活も上手くいっていない可能性は高いのです。
勿論、実はAは向いていなくて失敗したけど、Bを選んでいれば凄く適性があって成功したというパターンもありえますが、そのパターンに当てはまるかは怪しいところです。「あっちを選んどけばよかった」との後悔の内容にどれだけの合理性があるかは微妙だと思います。
ドラクエではありませんが、「はい」「いいえ」のどっちを選んでいても、そんなに結果に差異が生じなかった可能性も十分にあるでしょう。「オッホッホ。わたしのことを覚えていますか」と聞かれたときに、どっちを答えてもどうせ戦う羽目になるのと同じことです。
○他の選択ができる状況だったのか
人というのは、当時の具体的事情のことも忘れて後に「ああするべきだった」と考えるものですが、そもそも本当に「ああすることができた」のかも怪しいことがあります。
例えば、「就活の苦しい文系ではなく、理系を選べばよかった」と後悔している人も、実際には当時物理・科学・数学が全くできていなくて、理系に進むなんて自殺行為に等しいような状況だった可能性もありますし、その人の資質や適性からすると他の選択を選ぶ余地がなかったのではないかと思われることもあるわけです。
それに、当時の体調や健康状態、時間的余裕からすると、「○○をしよう」と思っても、それをすることができないような状況だった可能性もあります。転職活動をすればよかったと後悔している人も、本当に活動をするだけの力や時間があったのか、生活状況や家族への理解からして転職が可能だったのかと言うと疑問符がつくことも少なくないでしょう。
要するに、実際には(無意識ではあるが)やむを得ず選択をしていて、他の選択をすることが極めて困難ないし不可能だったパターンもあるわけで、本当に他のことをすることのできる状況だったかは考え直すべきだと思います。
恥の多い人生を送ってきた私ですが、当時としては合理的な選択・判断をしていることが多いですし、考えれば考えるほど「過去の自分、何も間違ってないやん!」と思うことが多いです。ただ素質がなく、ただ不幸なだけで、選択に問題があるわけではないパターンが多いです。自分に素質がないと認めるのは辛いことですが、他の方も似たようなことが多いのではないでしょうか。
自分なりに頑張ったのに満足いかない人生を送っている人なんかは、どうしても「○○をしなければよかった」といった後悔をしがちですが、あまり後悔しても仕方がなく、選択や判断過程には問題がないことも多いと思うので、そもそも後悔をしないのが良いのではないかと思います。
やっぱり物事というのはすぐにやるべきものだ
人というのは、面倒なこと・苦手なことをつい後回しにしがちですし、締め切りが決まっているのに物事をすぐにやらずにギリギリまで放置したりするものです。
人の習性というのは本当どうしようもないものですが、そうはいってもやはり物事はすぐやった方がいいという話をしたいと思います。
これを読んで少しでもモチベが上がれば幸いです。
○大事なことでもつい忘れてしまう
よほど記憶力に優れた人なら別かもしれませんが、普通の人は時間がたつと物事をすぐ忘れます。
大事なことであってもつい忘れてしまい、やるべきことの存在をギリギリになって思い出したり、最悪締め切りを過ぎてから思い出すなんてことも十分にありえます。
それに細かい部分で良いアイデアが浮かんだり、改善点を見つけていたりしても、時間が経つと詳細はすぐ忘れてしまいます。
思い立ったときにやらないと、せっかくの貴重な発想が水の泡と化してしまうのです。何とももったいないことでしょうか。
せっかくの発想を無駄にせず、仕事のクオリティーを上げるためにも物事は思い立ってすぐやったほうがよいのです。
私も、すぐにブログを書かないせいで、読んでいる人の人生をとんでもなく豊かにする神っているアイデアを数多く失ってしまったので、思いついたときにネタをメモするよう努めています。
○覚えることに労力を費やしてしまい、無駄な労力がかかる
また、物事をすぐにやらないとなると、ずっと物事を頭の隅に置いておきながら何かをする羽目になりがちです。
「これをいつまでにやらないといけない」という思考を繰り返す羽目になり、思えておくことに力を使ってしまうことになりますし、そのせいで本来なら違うことを考えて違うことに全力を注げたはずなのにそれができなくなるおそれがあります。
物事をすぐに終わらせていれば、違うことを考えてその結果ノーベル賞ものの着想が得られたかもしれないのに、物事をすぐにやらなかった結果「やらなきゃ」ということにばかり意識が向いてしまって会心の着想が浮かばなくなるかもしれないわけです。
さすがにノーベル賞ものは話を盛りましたが、そういった社会にとっても個人にとっても利益を損ねる結果を招かないように心がけるのが望ましいはずです。
現時点ではそこまでワーキングメモリーの研究は進んでいませんし、主観ではありますが、期限が迫っているものをずっと頭に入れておくことは意外と脳を使っているのではないかと個人的に思っています。色んなことを意識し続ける状況だと、ミスも増えますしさっさと頭の中を整理してしまったほうが良いと思います。
○やらないとかえってストレスになる
物事をすぐにやって終わらせることができれば、その後は晴れやかな気持ちで違うことに取り掛かれますし、「これをいつまでにやらなきゃ」というストレスから早期に解放されます。
それに残り時間が刻々と無くなっていき、「間に合わせないといけない」と焦ってイライラする事態を防げる可能性も高まります。
どうせいつのタイミングでやるにしてもストレスがかかるのであれば、よりストレスが増すと思われる締め切り間際にやるのではなく、もっと早めに取り掛かったほうがストレスの総量は抑えられやすいでしょう。引き延ばしはお勧めできないのです。
ドMな人には何も言いませんが、ノーマルな人はストレスが少ない方が良いに決まっていますし、「今やらないともっとキツくなる」と思って、早期にストレスから解放されるように動いたほうがよいでしょう。
○時間が足りずにクオリティーが落ちる自体を避けやすくなる
物事に着手する時期が遅れると、それだけ試行錯誤することのできる期間が減ってしまうため、最終的に時間が足りずにクオリティーが微妙になるおそれが高まります。とにかく間に合わせるだけで精一杯になってしまうおそれも強いです。
時間切れで失敗しないことを避けるためには、早めに物事には取り掛かったほうがよいのです。
考えてみれば受験もまさにそうでしょう。取り掛かりが遅いせいで結局本番に実力を高めきれずに志望校に行けなかったという人は山ほどいます。
そういった人たちの存在を他山の石として利用して、自分の成功する確率を上げるのが賢い生き方ではないでしょうか。
時間が足りずにクオリティーが落ちるとか、私の司法試験のゴミみたいな答案を馬鹿にできないので、私の答案を馬鹿にできるような生き方をしましょう。
○不意の障害にも対応しやすくなる
普段健康な人というのは、どうしても自分が病気になることをあまり考えず、いつでも健康に物事に力を入れられると思いがちです。
しかし、実際には健康な人でもすぐ風邪をひきますし、いつ病気になってもおかしくありません。病気になって思うように課題をこなせなくなるという事態が起こることも当然ありえます。
それに病気でなくても、他に用事が入ることがありますし、不意の障害が発生するリスクを考えれば早めに物事に取り掛かったほうが安全です。
いつもいつでもいつまでも健康でいられると思ったら大間違いですからね。10代の多くの人はそこの意識が足りないように思います(老婆心)。
○まとめ
忘れる、ずっと覚えとくのもしんどい、早期に解放されるほうがストレスはまだ少ない、時間切れのリスク減少、不意の障害への対応のしやすさという点を見るとやはり物事はしんどくてもすぐに取り掛かったほうが良いと思います。
すぐやらないともっとキツくなると胸に刻んで、すぐにやらない理由を一つずつつぶしていきましょう。
もっとも、「締め切り間際になったらとんでもなく集中力が上がるし、火事場の馬鹿力を利用した方がええんや!」という意見もありますし、リスク覚悟で引き延ばしを行う方法が向いている人もいるでしょうし(とても他人にはお勧めしにくい)、一概には言えないところがありますけどね。
文系・理系でひとくくりにする大雑把にもほどがある議論はやめよう
今も昔も高校時の文理選択は人生の大きな岐路ですが、日本では、大学入学後はもちろん、卒業後ですら文系か理系かという分類で物事が語られることが少なくありません。
しかし、そんな文系か理系かの2分割で物事を考える思考方法は、あまりにも合理性がないガバガバだという話をしたいと思います。
○一言に文系・理系と言ってもあまりに範囲が広すぎる
例えば、文系学部といっても、法学部、経済学部、経営学部、社会学部、教育学部、文学部、国際何とか学部といったようにいろんな学部がありますし、さらに法学部の中には法律学科と政治学科があるなど学科まで見てみるとさらに細分化されます。
また、工学部を考えてみると、建築学科、物理工学科、電気電子工学科、情報学科といった細かい分類がなされており、それぞれ専攻によってやることも当然違います。
同じ学部ですらやることはかなり違ってくるわけなので、ましてや学部が変われば話は全然違ってきます。研究する対象も方法もまるで違うものになることも多いでしょう。
一言に文系学部、理系学部といってもやってることが全く違いますし、学生がどう学ぶのかもまるで違います。それなのに、それをひとくくりにして物事を語っても的外れなことを言うのがオチではないでしょうか。
スポーツでいえば、「球技とそれ以外!」というような大雑把すぎる分類をするようなものだと個人的には感じます。
○社会科学と人文科学すら分けて考えないのはいくらなんでも暴挙では?
それに、文系と言っても、法律や経済などの社会科学と文学などの人文科学では、そもそも研究対象が社会と人間で違いますし、だいぶ性質が異なります。
自然を研究対象するものと、社会を研究対象とするものを分けて考えるのであれば、同じく社会科学と人文科学も対象が違う以上分けて考えないとまずいのではないでしょうか。
学問をとんでもなく大雑把にまとめる分類方法が、自然科学、社会科学、人文科学という3分類なのに、それをさらに大雑把にとらえるのはもはや狂った所業ではないかと個人的には思います。
○厳密に考えていくと文理の分類が非常に難しい
受験だけ見ると文理の区別は比較的しやすいですが、それでも理科系科目で経済学部を受験できるとする大学もありますし、文系理系どちらの受験科目でも選択可能とする学部もあるので、「文系理系のどっちなのかわからなくなってきた」といいたくなるものはいくつかあります。
そもそも総合人間なんとかといったように、研究対象が広く、横断的であり、単純に自然科学や社会科学といった分類をするのが難しく、文系理系の区別もしづらい学部も近年では珍しくありません。
また、心理学は一応文系扱いされることが多いですが、脳科学に関係する部分も大きく自然科学的な側面も強いです。実際に医学部で心理学に関する研究をする場合もありますし、海外ではむしろ自然科学という位置づけをするところが多いと思います。
それに哲学などは、どの分野を研究するにしても関わってくるところがありますし(法学にも法哲学という分野がある)、しっかり研究していることを見てみると、哲学といっても一概に人文科学であって文系と言い切れない場合があります。
それに法医学みたいに複数の分野が重なったものもありますし、自然科学と社会科学両方の側面をもつ分野も少なくありません。
学部単位でなくさらに踏み込んで何をやっているかを見てみると、文系理系の区分がますます困難になってきます。
単純に高校時代に何を学習していたかで文系・理系を決めてしまうと、実際に大学でやったいたのは理系的なことなのに文系扱いされるといった事態も起こりえます。
そういう人を果たして文系として取り扱うのが正しいのかは怪しいところです。
○大学のレベルによっても世界が全く違うものになる
世の中には、「文系は勉強せず遊んでばかり」、「理系は論理的だけど文系はそうじゃない」、「文系はそもそも社会に役立ってない」みたいな大雑把すぎる意見が横行していますが、実際には大学のレベルによってどんな状態なのかはまるで違います。
(法律や会計が社会に役立っていないわけがないですし、最後の意見はさすがに頭がおかしすぎると思う)
例えば、一定以上のレベルの大学の法学部の学生であれば、そこそこ勉強しないとそもそも単位が取れず4年で卒業できませんし、司法試験や公務員試験に向けて修行僧のように勉強している学生がごろごろいます。
それに、そういった大学の学生は論理的に物事を考え話す人が多いですし、法律という論理的整合性を極めて重視する学問の性質上、数学科と肩を並べるぐらい論理性を磨いている人が多いです。
高校時代も、そこら辺の理系の学生よりも遥かに数学ができた人が多いですし、大学入学までの努力もすさまじいものがあります。
しかし、そうでない法学部の学生はまさに社会でよく言われているような状況です。というか偏差値が低いと文系だろうが理系だろうが勉強しませんし、理系だから勉強していて賢いなんてことは全くないのです。理系だろうが驚くほど努力しませんし、高校レベルの学習はもちろんのこと漢字すら怪しい人がごろごろいます。
同じ学部であっても、大学によって学生、卒業生がどんな人なのかはまるで違いますので、大学のレベルを考えて物事を語らないと、「こいつ何言ってるんだ」という的外れな意見になってしまいます。
○さいごに
世の中には大雑把すぎる考えのもと大雑把すぎることをいう人が極めて多いですが、文系理系という二分で物事を考えるガバガバすぎる思考はツッコミどころがあまりに多すぎます。
そういう考えをしている人はこれを機にやめましょう。
安易に「価値がない」、「役に立たない」と判断し、切り捨ててはいけない
今年もノーベル賞受賞が決定する時期となり、ニュースでは大隅教授のノーベル医学・生理学賞受賞が話題となっています。
大隅教授のノーベル賞受賞は実にめでたい事なのですが、昨今では、具体的な成果を出せないと研究費すらろくにもらえない傾向が強まっており、すぐに何かの役に立つものではない基礎科学などの分野の風当たりは強いです。
それどころか、昨今の日本では、研究分野に限らず様々な分野において「役に立たないものにはお金をかけるべきでない」、「具体的に何か社会の利益となる成果の出ないものは価値がない」と切り捨てる風潮が強まっています。
しかし、そういう風潮が根付くことは非常に危険であるという話をしたいと思います。
1.その分野のことをろくに知らない人による判断の合理性は怪しい
人と言うのは、自分のもつ知識や理解、知性などを元に判断を行うものであり、「価値がある」、「役に立つ」という判断もその人の限られた能力の中で行われるものです。
しかし、野球のことをまるで知らない人が、「この選手は見込みがないので価値がない」、「この選手は役に立っていない」と判断しても、的外れであてにならないことからわかるように、その物事をしっかり理解していないと合理的な判断はできません。
野球で言えば、野球のルールを覚えてしっかり野球を見続けることは当然の前提でしょうし、UZRとかWARだとかの具体的指標を理解した上で分析を行わないとまともな結論は出しにくいでしょう。三振が多くてもその分四球も多いかもしれませんし、エラーが多くてもその分守備範囲が広く守備での貢献度は高いかもしれないのです。
文学とか芸術とか、基礎科学などの研究も同じことで、素人判断でぱっと価値があるか役に立つかを判断しても、合理的な判断ができている可能性は低いでしょう。
何をどれだけどのように評価して結論を出すべきかもわからないでしょうし、合理的な判断要素・要件をしっかり挙げて、それを的確に考慮して妥当と思われる結論を出すことなど困難です。
それなのに、数が多い意見こそが正義といわんばかりに、その分野のことをろくに知らない「素人」の判断を重視してしまうとどういうことが起こるでしょうか。
おそらく、価値があるものとないと判断したり、役に立たないものを立つものを判断して、社会全体がおかしな方向に行くおそれが強まるのではないでしょうか。そして、社会全体の利益は小さくなってしまうのではないでしょうか。
2.長期的多角的な視点をもって判断しないと合理性は乏しくなる
素人判断とも関連することですが、物事には短期的に見るか長期的に見るかで評価が変わることが珍しくありません。
短期間だけ見ると成果が出ないし役に立たないという場合でも、20年30年、50年60年、100年200年とスパンを広げて見てみると、実はとんでもない利益を生み出すものだってあるはずです。
それなのに、短期的な視点しかもたないと、本来であればとてつもない利益や成果が出ていたはずなのに、みすみすそれを取り逃してしまう羽目になりかねません。それは個人はもちろん、組織や社会にとっても痛手でしょう。
また、ある視点だけ見ると役に立たない場合であっても、いろんな視点から物事を見てみると実は役に立つ、価値があると判明することもあるはずです。
例えば、変な形をした湯呑があるとしましょう。実用性と言う観点では形がおかしいし他の物を使ったほうがいいから価値がなく、観賞用という観点でも別に気に入ったデザインでもないし価値がない。
しかし、骨とう品としてマニアの間では価値があり100万円で売れるみたいなこともありうるのです。
そういうわけで、限られた視点からしか判断しないとなると、思わぬ利益を取り逃したり、思わぬ損害を被ったりするおそれがありますし、物事は多角的に色んな観点からじっくり判断しないといけないのです。
ある派閥からお偉いさんが価値がないと言っても、他の分野に詳しい人の話を聞けば長期的には価値があるとわかるかも知れません。安易に一つの観点からの意見に囚われて「価値がない」、「役に立たない」と判断してはまずいのです。
3.人にとって、目に見えてわからない影響・効果・成果を加味するのは難しい
また、人と言うのはどうしても客観的によくわかる事情に捉われがちです。
具体的に売り上げを1000万円増やしただとか、コストを500万円削減したみたいなはっかりとした数値が出れば適切と思われる評価をできますが、数値として表すことのできない事情も少なくありません。
例えば、文学や芸術などがそうですが、目に見えて何らかの利益があるわけではないものの、実は長きにわたって人の精神活動に影響を与え、人々の生活に彩を加え、人々に感動を与えたり、幸福にしたりするといった多大な利益をもたらしている場合だってあるわけです。
仕事でも、別に飛び切り営業成績がいいわけでもないものの、実は後輩の面倒見がよく、ムードメーカーとして活躍しギスギスした空気を払しょくし社内環境を良好なものにしている影の貢献者がいたりするものです。
パッと見ではわからない部分までしっかり考慮しないと、組織や社会に欠かせない人材・物を不当に冷遇して、多大な利益を損ねるおそれがあります。
安易に目に見えてわかることだけを評価して判断をしてはいけないのです。
4.まとめ
その分野における知識や理解をもち、長期的多角的視点を持ち、パッと見ではわからないこともしっかり考慮しないと判断の合理性は怪しいものです。
合理的な判断をするだけの材料をもっていない人が、安易に限られた判断材料だけで「価値がない」、「役に立たない」と判断するのは危険なのです。
まあ、もっと危険で厄介なのは、限られた判断材料しかもっておらず合理的な判断ができない事実があるにもかかわらず、そのことを本人はわかっていないし大衆もわかっていないということが少なくないところなんですけどね。
量をこなせば難関も突破できるという考えは危険
世の中には、「努力し続けていればやがて理解できるはず」、「練習し続けたらいずれできるようになる」みたいな風潮が様々な分野において根強くあります。
確かにある程度は事実であることも確かなのですが、そういう「量をこなせば難しいことでもできるはずだ」という考えにどっぷりつかるのは危険だと言う話をしたいと思います。
○多くの人は憶測でものを言っている
勉強でもスポーツでもそうですが、本当に何年間も必死で努力し続けることのできる人は少数です。
分かりやすい例として、大学受験でいえば、東大や京大に合格する人を合わせてもその学年の1%にも満たないわけです。阪大や一橋、東工大、一部の医学部などを含めていっても本気で勉強して難関を突破した人はほんのわずかにすぎません。
実際に量をこなして難関問題をできるようになり、上に挙げた難関を突破した人はせいぜい1.5%ぐらいの人にすぎず、私を含めた98.5%ぐらいの人は結局できていないのです。
1.5%の人については量をこなせばできるようになったわけですが、他の98.5%の人も量をこなせば難関を突破できたのでしょうか?
勿論、中にはそういう人もいるのでしょうが、残りの98.5%の人が本当に量をこなしてできるようになっていたのかは結局憶測で語るしかなく、本当に量をこなせばできたのかについて真実は闇の中なのです。
できていない大衆が勝手な憶測で「量をこなせばできるようになるものだ」と言い出すことが多いですが、実際に量をこなしてできたわけでもない、それどころか量をこなしてすらいない人の話にどれだけの信ぴょう性があるのでしょうか。
まだ私のような量をこなしても上手くいかなかった人の話の方が、実際にチャレンジをしている分、遥かに信ぴょう性がないでしょうか。
○できないことは、時間をかけてもなかなかできないという現実がある
野球などを見ていても、いつまで経っても一軍に定着できずじまいの選手と言うのは多くいますし、強豪校ではめちゃくちゃ練習しているのにレギュラーになれずベンチにも入れない選手がごろごろいることがわかります。
スポーツをまじめにやっていない人は「練習すればいずれできるようになる」と安易に考えがちですが、ある程度のレベルともなるとなかなか壁を突破できずにもがいている人が少なくないという現実があります。
受験の世界でも、かなりの労力をかけているのになかなか合格できない人は少なからずいるわけです。
司法試験なんて回数をこなせばこなすほど合格率がむしろ下がるため、論文を書けない人は結局できないままという傾向が強く出ています。量をこなしてもどうにかなっていない人が少なくないのです。
研究の世界でも、何年も必死にやってきたのにまるで成果が出ずに終わるというのは多々あることです。
世間では成功例しか取り上げず、上手くいかなかった人はひっそりと姿を消すため、傍から見れば量をこなせば上手くいくように見えるだけです(実際には、量をこなして成功した人しか「見えていない」だけ。)。
私も10年近く法律の学習をしましたし、一般的な司法試験合格者よりは学習量を積んでいますが、いまだに民訴なんてわからないことだらけですし、「量はこなしたが、難しいことはいつまで経ってもしっかりとは理解できないし、なかなかうまくいかないものだ」と痛感しています。
かつて「これ今は全く何もわからないし難しそうだけど、さすがに6年ぐらい勉強すればできるやろ」と思ったことが、結局多少しかできていないということがいくつもあります。もはや悔しさや惨めさや辛さが募りすぎて、「学問なり難し少年負い易しというのは、時代を超えて通用する人間の真理だなあ」と悟りの境地まで達するほどですが、さっぱりわからなかったこと・まるでできなかったことというのは、量をこなしてもなかなかできないものなのです。
勿論、中には何かのきっかけで上手くいくものもありますが、そのきっかけを見つけるまでに何年もかかることがままあるわけで、当然最後まで見つからない人も出てくるのは不思議でないでしょう。
こういう「できるものはできるが、できないものはいつまでたってもなかなかできないという辛い真実が世の中には結構あるのではないでしょうか。
できる人にとってはぱっとできてしまうことについては、「自分も量をこなせばいける」と思いがちですが、それが通用しない悲しい現実がよくあるように感じます。
○上手くいった人の話も、その人の中ではそうだっただけの可能性大
結果的に難関を突破した人たちの話というのも、結局はその人が量をこなせば何とかなっただけの話である可能性が十分にあります。
突破できていない98.5%のうちどれだけの人に同じことが当てはまるのかは怪しいところです。
というのも、自分にどれだけの適性・素質があるかは知力の高い人でも判断しがたいですし、優秀な人が周りにいると感覚が狂いますし、ビジネスのために「みんなもできる」的な話をしたがる人が多いので、一般人にとって彼らの言うことにどれだけの合理性があるのはか定かでないのです。
私も周りに京大に行っていたり、司法試験にストレートで合格したりした人が少なからずいますが、だいたいそういう人は元々記憶力や集中力が優れていて、素晴らしい教育環境も整っていました。
そこにさらに量が加わったからこそ上手くいったというのが真相で、元々の素地があったというのがとんでもなく重要な要素だったように思えます。
だいたい難関ともなると、他に真剣に人生を賭けて挑んでくる人が少なからずいるわけです。
相対評価となればそういう人たちとの競争しないといけないわけですが、相手が相手なので量をこなすだけで簡単になんとかなるほど甘い勝負ではなくなるでしょう。
自分が必死に頑張っていても、競争相手も頑張っているわけで、さらに相手の方が素質も環境にも恵まれていればなかなか太刀打ちできません。それでも、枠は決まっているわけですから、そういう人たちとも太刀打ちしなければいけないのです。
「量をこなせばなんとかなった」という人は、量以外の点に恵まれていて、あとは量さえこなせばよいという段階にあったからこそ、そういっているだけの可能性があります。
なので、量以外の点でもいろいろ問題あるだろう普通の人が真に受けてはいけないのです。
○できない原因を見誤る
「量をこなせばできる」という考えが強すぎると、自分や他人ができない原因をすぐ努力不足だと認識してしまいます。
しかし、実際には、上手くいかない理由は多々あるわけですし、元々適性が全くなかったり、素質にかけていたり、アプローチ方法に問題があったり、適切な指導にありつけていなかったりと人によってどこに問題があるかは様々です。
真の問題点に気づけないままだと、結局問題は解決しませんし、弱点は克服できないままなので最終的に上手くいかないということになりがちです。
原因を見誤り、本来ならばできたことができずじまいに終わらないためにも、「量をこなせばできる。大事なのは量をこなすこと」という先入観に捉われないことが大事です。
○引き際を見失う
残念ながら人には適性や素質というものがあるため、いくら課題の量をこなしてもできるようになるとは限りません。
私がアイドルとして活躍するのは到底無理なように、「量をこなしても、これは上手くいかないな」ということがあるのはやむを得ないことです。
ですがそこで「量をこなせば、いずれできるんだ!」という思想に捉われてしまうと、頑張ってもできないことに挑戦し続け多くの時間と労力と費用を失い、辛い思いをするだけになってしまうおそれが高まります。
人生は有限ですし、取り返しのつかない事態になってしまうおそれも十分にあります。
ある程度頑張ってみてそれでもにっちもさっちも行かない状況のままであれば、冷静に考えて量をこなしていっても上手くいかない可能性は高いですし、引き際を考えるのが無難であって、合理的でしょう。
○自分や他人を呪い続ける
「量さえこなせばうまくいく」という発想に捉われた結果、「上手くいかないのは全て頑張りが足りないから」という暴論を吐く人が世の中には少なくありません。
実際には、上手くいかない理由・要因は色々あるはずであり、量の問題じゃないだろというケースも多いのでしょうが、そんな事実は努力至上主義という一種のカルトにはまってしまった人には関係がないのです。
そういう人は、実際にはそうでない可能性も高いのに、「努力が足りなかった自分(や他人)が悪い」、「努力が足りていないから上手くいかない」と、自分や他人を攻撃し続けます。
ただでさえ、必死に頑張ってきたのに結果が出せず悔しい思いをしている人にとって、それらの言葉はただの呪いでしかなく、その人を不幸にすることしかないでしょう。
自分や他人を傷つけてもドMの人以外は得しませんし、「量をこなせば難関も突破できる」という考えにどっぷりハマって、結果的に呪術者になることは絶対に避けるべきではないでしょうか。